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「公共」というものをどう捉えどう作り出すかということは、現代の日本社会において、大きな問題だと思われます。そして、その問題は、ただ米国や欧州での実情や研究成果をトレースするだけでは解決することのできないもののようです。

その人生や仕事が映画化され、「悪の凡庸さ」などを指摘した哲学者として再び注目を集めているハンナ・アーレントは、その著作『人間の条件 The Human Condition』(1955)において、「公共」の場というものを「活動」の場として捉えています。

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アーレントは人間の生活を可能にする力を以下のように3つに区分けしています。

(1) 「労働(labor)」=生命を維持するための活動力
(2) 「仕事(work)」=持久・永続するものをつくって自然とはことなる人工の世界を作り上げる活動力
(3) 「活動(action)」=人と人との間でおこなわれる唯一の活動力。

この3つめの「活動」の場こそ、「公共」の場であり、「政治」の場であるとするのです。つまり、「労働」や「仕事」というものとは区別されるものとして、「公共」は存在すると捉える。イメージとしては、自由な個人の集合を想像すれば良いかもしれません。それは例えば、ギリシャの都市国家におけるアゴラ (広場) で体現されていたともアーレントは言っています。西欧の文明にとって古代ギリシアは、決定的に重要なものなんですね。

ただ、現代の日本社会においては、ここで示されている「公共」は教科書的な上辺の理想論で、実質を伴っていないもののように思われることも確かだと思います。日本と欧州の歴史的な変遷によって社会構造は全く異なる。その違いを認識しなければ、「公共」の議論は小さな趣味的なクラスタの話題の域を出ることはできないのかもしれません。つまりそれでは「公共」というものを作れることはできない、ということなのです。

「公共」について関係する欧州の研究成果からもうひとつ。社会学者のユルゲン・ハーバーマスによると、近代化は二重の社会進化のプロセスによって進んできました。それは、「開放的な民主化」と「効率的な道具的処理の深化」の2つです。「開放的な民主化」はコミュニケーション的行為によって主導され、「効率的な道具的処理の進化」は目的合理的行為によって遂行されます。

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これをハーバマスは、「生活世界 (Lebenswelt)」と「システム (System)」という二つの行為領域の合理化として論じています。

(1)「生活世界」:話し合いによって人びとが交流し合う世界。
(2)「システム的世界」:企業や官僚などによって管理・支配された世界。

そして、近代化とは、「システム的世界」が「生活世界」を浸食するものだと言います。つまり、近代化がもたらすもののひとつは、人びとが話し合って交流する機会が減少していくことだということです。そのような流れの中で、いわゆるサードプレイスの重要性なども浮上しているということができるかもしれないですね。

つまり、アーレントとハーバーマスの議論を無理矢理つないでいくと、西欧では、「公共」を意識的に生成する歴史的なバックグラウンドがあり、近代化の中にある人びとが話し合ったり交流したりを減らす指向性の中でも、「公共」を作り出すための技法が伝統的に培われているということ。

そして、日本ではアーレントが指摘するような「公共」はないに等しいし、近代化の持つ話し合ったり交流したりを減らす指向性に対抗する術を持たない、ということなのかもしれません。

しかし、ここで言われているような西欧において培われてきた「公共」というもののイメージというのが実は特殊なのではないか、という議論も可能なのではないでしょうか。

先日のトークイベント(「ポスト311の「トーキョー」ーー東京五輪の文化プログラムをどう世界に開くか 実況まとめ(2014.4.19@ゲンロンカフェ)」http://togetter.com/li/657117)で、東浩紀さんが言っていたのは、飲み会的なものによって「公共」の場を作り出すということでした。何故、飲みが必要になるかというと、「公共」で語ることは自分の利害などを一度括弧にくくった上で「みんな」の利益を考えないといけないから。つまり、ある種の変性意識状態にならないと、どうしても人は自分の利害やポジションで言動しがちだということです。そのリミッターを外す、と。

このような変性意識状態のコミュニケーションによって「公共」を作り出そうとした人としてすぐに頭に思い浮かんだのは、高円寺を中心として活動する「素人の乱」の首謀者である松本哉さんです。彼もずっととりあえず飲んだ上でのコミュニケーションを重視しましたね。

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しかし、この飲み会による「公共」を生成もまた、限界があるようにも思われます。それはやはり「数」の問題です。例えば、20人とかそれくらいなら、そのような「公共」の作り方は効果的かもしれませんが、それが20万人とか100万人とかになってくると難しくなってくる。細かなコミュニティ単位で「公共」を作りそれらの集合として大きな「公共」を作るという方法も考えられますが、これではまた、自分たちの利害だけではなく「みんな」のことも考えるような「公共」は難しくなるのではないでしょうか。

そこでは、それぞれの小さな「公共」がその上位の大きな場において「闘議」するような形になりやすいのではないでしょうか。そうなると、様々な能力のあるなしによって、どのような小さな「公共」が影響力を持つのかが決まっていくのは容易に想像ができます。

そこで有効になってくるのが、「祝祭」というものになってきるのでしょう。これは方法によっては人数の壁というものを超えていく可能性を持つもののように思います。

ただ、この「祝祭」においては、そこで行われるコミュニケーションの多くは非言語的なものになる。ある種のトランス状態の共有によって「公共」が生み出される場、それが「祝祭」と言えるものでもあるからです。そのような非言語的なコミュニケーションこそが、古今東西、コミュニティの維持にとても重要な役割を果たしていたことを否定する人はいないでしょう。

ただやはり、そのような大きな物語としての「祝祭」は現在、なかなか機能しなくなっていることも事実。つまり、無数のクラスタ、コミュニティにそれぞれの「祝祭」が存在しそれぞれの「ネ申」がいる。そうなるとやはり、先ほど挙げた「闘技的民主主義」のリアリティというものが浮上してくるわけです。神道的のいうか、ヒンズー教的な世界観というか、それがリアリティのある状態になっている。

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でも、多くのコミュニティやクラスタは、例えば、自分たちが擁立する政治家とか擁立しないわけで。また、それぞれの集団が政治家を擁立する未来もこの日本ではなかなか描くことが難しい。なぜなら、そのような伝統は西欧由来のもので日本には根付いていないからです。

そこで一つの案としてあがってくるのが、「一般意志2.0」のような情報技術による解決方法なのでしょう。

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近代化は人びとが話し合い交流する機会を減少させるということは先ほど述べました。「一般意志2.0」では、システムの担い手であるそれぞれのクラスタの暴走を中和するものとして、外部が可視化することのできる状況を作り出すことを意味しています。つまり、ハーバーマスのいう「生活世界」と「システム的世界」を繋ぐものだということですね。それは社会像は、それぞれのクラスタやコミュニティが一同に介し「闘議」することによる決定とはまた別の緩やかな民主主義のシステム。

そこに「飲み会」とか「祝祭」がどのようにビルトインするのか。そういうことを考えているのはとても楽しい。それは日本的な「公共」をアップデイトすることに他ならないからです。その「公共」を考えるという行為もまた、「公共」的なことのように思いました。