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電車に乗りながら、メディアとコンテンツについて考えてみる。電車は人を載せる箱、つまり、メディアで、中に載っている人たちは、入れ替わっていくからコンテンツ、として考えてみよう。この動く箱は、線路の上に乗っかって、決まったルートの線と決まった目的地の点を結んでいく機能を有している。そこに乗っている人たちも、その背景や志向は様々だ。

そこの乗ってくるコンテンツたる人たちは、ある出発の駅としての点と目的地の点である駅の間をこの箱の中で過ごす。ここに乗って居合わせるのは、普通の電車の場合、皆ほぼ偶然と言えるだろう。つまり、この電車というメディアは、実は出会いのアーキテクチャでもあるのだ。けれども、私たちはそのことに目をつむって日常を過ごしている。なぜならば、それはめんどくさいからだ。

そのめんどくささのひとつは、電車に乗っていることの目的性によってかたちづくられている。日常における電車での移動というは、基本的に地図上の点と点を移動するという目的に従事したものなのだ。つまり、世の中のありのままの姿を感受するには、人間の脳には限界があるということなのだ。自分の認知限界とかエネルギーコストとかそういう都合で、私たちは様々な観点を状況から剥奪して生きている。つまり、これは機能的な不感症と言えるだろう。

ただもちろん、例外もある。例えば、旅に出た時とか、長期に渡る移動の最中も、少し日常を離れた時の電車の中では、隣に座った人や前に座った人に話かけることがあるかもしれない。これはつまり、この移動自体が目的の一部となっている、ということでもあるのではないだろうか。まぁ、暇であるということもあるだろうけれども、それによって乗客に他人への欲求が生まれるのである。そこで乗客の身体はインターフェイスとなり、他人と交流しはじめる。日常において、縮減機能のために遮断されていた回路が解放されるのである。

これを演劇の話にトレースすると、ツアーパフォーマンスにおける観客に、この電車の乗客を位置づけることが可能かもしれない。そこで観客は、暇だったり、日常を演劇という枠組みの中で非日常化することで、日頃、使っていなかったものの見方を回復していくのである。ここに、旅と演劇の親和性をみてとることができるだろう。基本、電車の内部のみで完結する演劇、というものを考えてみたい。(たぶん、続く)