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1.

文芸評論家の藤田直哉さんの書かれた論考「前衛のゾンビたちーー地域アートの諸問題」(『すばる』10月号)を興味深く読みました。

公共の文化事業に関わる人たちにとって、暗黙のテーマだったことを、ちょっと離れたところから言葉にして問いかけています。こういう議論は、その出発点がどこから始まるのかが大事だと思いますが、とても良い距離感で放たれた、という印象を受けました。

藤田さんは、「文芸評論」という「村」に比較的しっかりとした基盤をお持ちの人であると思うので、この論考は、別の「村」に対する1人の「観光客」からの視線である、とも言うことができるかもしれません。

多分、アートの「村」の中の人たちも、この論考の受け取り方は一様ではないでしょう。「おお、やっと言ってくれる人が出てきた!」という人もいれば、「あちゃー、今それ言っちゃいますかー。」という人もいるのではないでしょうか。まぁ、「何が問題か分からない」という人は、あまりいないのではないかと思います。

2.

ここでは、論考の最後の方で発せられているこの問いかけについて書いてみたいと思います。

「それでは、芸術が芸術という固有の領域であることにより期待されていた、現世を超えたある種の力を、失うことにはならないか。世界を全的に変えてしまうような鮮烈な力を失うことにならないか。そしてそのことにより、社会や政治を変える力を、かえって無くすことにならないだろうか。」

藤田さんは、Twitterの方でも、この論考への反応に応答しておられますが、その中で、「芸術」とか「美」といった概念を、固定された、つまり、本質主義的に扱っているわけではないことをことわっています。

つまり、今の「地域アート」の流行の中で、「芸術」や「美」といった概念が変容しているようだけど、そのことに無自覚に、そして素朴に乗りすぎてるのではないか、という問いかけなのだということです。もっと言えば、今の「地域アート」の現場に「批評」が「言葉」が足りないのではないか、ということでもあるでしょう。

3.

その指摘と同時に、藤田さん自身の「地域アート」に対する言葉による批評的な介入をしています。それを端的にいうと、「それ、知における牙が抜かれてんじゃないの?」ということができるのではないでしょうか。

書いている私も、藤田さんの問いの1つである「社会や政治を変える力を無くすのではないか」ということに関しては、正直、まだ分かりません。それは今、実験と観察の最中なのです。

確かに、公共のアートが、行政の技術として使用されていることは、確かなことだと思います。けれども、市民をコントロールするという目的を果たしていこうとする中で、道具的に使用される側が、反対に影響を与える、という可能性はないのかなと思ったり。

些かあまい考えであることは充分に承知していますが、アートが社会のインフラとして行政の一部に組み込まれることによって、ただ利用されるだけでない変化も起こすことができるのではないか、ということを考えるのです。行ってみれば、行政と市民とかの関係のコミュニケーションの回路としても、機能しうるのではないか、とか。

これが実際どうなっていくのかは、私自身、まだよく分かりませんが、その分からない理由のひとつは、それが関わる人たちの資質に大きく依存するからです。もしかしたら、ただ一方的に行政側の都合に取り込まれる際の言い訳になってしまう可能性だってあるでしょう。何らかの対立する事象が生まれた時、やはり基本的には自分の生活の基盤を握っている方に傾くからです。

4.

あと、行政が主催するアートイベントにも、複数の目的がありますよね。その中でも「町興し」的なものが、論考では主に想定されているように思うのですが、もうひとつ、その目的としてよく使用されるのは、町の「浄化」を目的としたものでしょう。この「浄化」を目的としたアートイベントにおいて、上記の藤田さんの問いかけが、非常に重みのあるものとして響くと思われます。

例えば、売春街のような場所だったところをそういう人たちを排除して、空いたスペースにアートを入れ込む。もちろん、そこにアートを導入する最初の目的は、町のイメージを良くしていくことなのだけれども、ここからもうワンステップあります。

そのイメージが変わったら、その次は再開発がはじまるのです。つまり、その場所でアートは、再開発への移行をスムーズにするための過渡期としての役割を担うのです。その後、古い建物は取り壊され、そこでのアートの役割はそこで終わるでしょう。もちろん、一部はアートが残ることも考えられますが(そこは関係者の方々、頑張ってください)、目的はその後の再開発なので、駅ビルとか新しい建物が建ったり、地価が上昇したりします。

それは誰が望んでいることなのか。また、そこに何か問題がないのか。そのことを考えることも、藤田さんの問いかけに対する応答でありえるかと思いました。

5.

問題は、近視眼的になってしまって、大きなシステムの中での流れで位置付けられているのに、それが見えにくくなってしまうことかもしれません。そのように一種の隠蔽の機能があることを指摘すること、それがここでいう「批評」の機能ということなのかもしれません。

やはり、ここには「批評」とは何かという問いがあるのです。そして、その「批評」のあり方に応答してみたいと思いました。

藤田さん論考の中で、「地域アート」の現場での「王」は、「当事者」と「地域」である、と書かれています。ですが、私はそうは思いません。なぜならそれは、やはり主催する人たちによって、環境が設定されコントロールされているからです。

まるで、「当事者」と「地域」が「王」のように見せかけること。それは一種の政治のテクノロジーのように思います。ワークショップとか、例え、オープンエンドであろうとも、やはり誰かのコントロールした環境下にある。その行き先がどこに向かうのか、それが大事なことなのですが。

このような「批評」のスタイルを踏襲していうならば、この「地域アート」の現場で起こっていることは、言うなれば、「環境管理型権力のマイナーアップデイトなのかもしれない」、という問題提起をすることができるかもしれません。その良い悪いは、別にして。

まぁ、実際は、例えば「横浜トリエンナーレ」でも、実に複雑な関係の上でフェスティバルは成り立っています。およそ、反対のベクトルを向いているアートが同じプラットフォームの上に乗っている。そういう複雑さを読み解くことが、今、必要なのかもしれません。

すばる2014年10月号
すばる2014年10月号

posted with amazlet at 14.09.11
集英社 (2014-09-05)

(了)