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「死なないこと」のリアリティの増大

芸術家の荒川修作が発した有名な言葉に、「人間は死なない」というものがある。

何をもってして人間の「死」とするのか、その定義はその地域や時代、分野などによって様々であるが、現在、「情報」という分野において、「死なないこと」のリアリティは増大してきてるようにみえる。

その「死なないこと」のリアリティの増大は、もちろん医療技術の発展によるところもあるが、情報技術の発展によるところが大きい。例えば、巨大なライフログの蓄積によるデータベースの存在とその解析技術の向上。近年盛んに議論されているAIもこれに当たるだろう。

それらの技術の向上によって、いつか故人のパーソナリティを「再生」することもできるようになるかもしれない。そうでなくても、その情報の海の中で個人の「生」は継続してくだろう。けれども、そのような世界は、「死にたい」と思っている人とっては、一種の「地獄」のように思えるものでもあるのではないだろうか。

「死なないこと」によって生まれる地獄

一人の人間の「生」の情報は、生身の脳だけでなく外部に、個人に紐付けされた形で半永久的に残り続ける。もちろん、今までも人間の脳以外に情報を蓄積する方法はあったわけだし、それを人類は活用してきているわけだが、それがもっと極端なかたちでシステム化していく可能性があるのだ。たとえば、Googleの「忘れられる権利」なども、そのような変化の中での倫理的な議論といえるかもしれない。

何故、そのような「生」が終わらない状態が、「地獄」のように感じられるのか。その理由は、何故、人は死にたくなるのかという問いの中にある。ここでいう「死」とは、この世から消え入りたいという欲望の成就として定義してみよう。

例えば、消え入りたくなる理由は、羞恥心や罪の意識の膨張、または、この世界の仕組みに対する絶望というものにあるかもしれない。つまり、自分が世界の負った傷のように感じられるということ。生きれば生きるほど、その傷跡や罪が増えていくだけだと感じられるようになる、ということだ。正解を選べない世界の中で「生」を強制されるのは、確かに苦痛以外の何ものでもないだろう。

消え入りたいという欲望の根拠

しかし何故、そこで正解を選べないと判断することができるのだろうか。正解か間違いか、それを判断するためには、その基礎となるものが必要なはずだ。それがなければ、人は判断を下すことができない。この判断の基礎となっているものは何か。それが次に問われることになるだろう。

そこには、一人ではない、という意識、つまり、内面化されたコミュニティ意識があるというのが私の仮説だ。つまり、「アポトーシス」のような機能が、「死」の欲望には働いているようにも思える。

「アポトーシス」とは、多細胞生物の身体を構成する細胞の死に方の一種で、個体をより良い状態に保つために引き起こされる細胞の自殺、プログラムされた死のこと。つまり、ある有機的なシステムがあって自分はその一部である。そして、その有機的なシステムをより良い状態にするためには、自分が消え入る必要があると。そんな風な判断がかたちを変えて表象しているのではないだろうか。

集団的な「死後への不安」

哲学者の丸山圭三郎は、死への恐れの理由を4つ挙げている。

1.肉体的苦痛に対する恐れ、2.別離に対する恐れ、3.喪失に対する恐れ、4.死後への不安。

この中で、最後の「死後への不安」というものを、その他の3つより根本的なものとし、〈非-知〉に直面した時の戦慄として捉えている。つまり、「死後の不安」「死後に暗い心」こそが、「死」への苦悩の根元だというのだ。

現在において、この「死後への不安」が様相を変えて立ち上がってきているのかもしれない。しかしそれはおそらく、実存的なものだというよりは集団的なものとして生まれ変わったかたちで。そこに新たな「地獄」が生まれはじめているのかもしれない。