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文芸評論家の藤田直哉さんの論考『ゼロ年代批評の政治旋回――東浩紀論』を読みました。僕はこの論考を、批判により新しい問いを生成し「論壇」再起動のための装置を用意したという点において擁護したいと考えます。

http://nanasi-iinkai.hatenadiary.jp/entry/2013/07/04/185216

本稿では、東浩紀さんの3.11をきっかけとした「政治旋回」に関する議論が展開されています。

その「旋回」後の様子は『思想地図β vol.3「日本2.0」』の巻頭言に現れているとし、そこに3つの違和感、問題点を指摘し、その巻頭言と主著のひとつである『動物化するポストモダン』のデータベース理論とを比較することにより、その理論上の変化が語られています。そして、その批判は東さん個人への言及に留まらず、「ゼロ年代批評」界隈全体へと対象を拡大していきます。

藤田さんは「ゼロ年代批評」の特徴のひとつとして、内容ではなく「売り上げ」こそが思想を正当化するという言説空間であることを挙げています。そのような言説空間が形成されていったのは実感として分かります。といっても数万部といった規模なのですが、ポストモダン乗り越え型の新自由主義的な発想が蔓延している中で、文芸業界でそれと同じ空気感が大きくなってきための反応ということもあるのでしょう。しかし、何故そのような言説空間が形成されたのか、ということも重要なのではないでしょうか。

そのような言説が批評界隈で目立ち始めたのは、出版不況の中での「人文系の危機」というものが意識されていたからだと記憶しています。例えば、有名な文芸誌なども全国の図書館に納入するものも含めても数千部といった状態。出版社の経営状況から見ても、漫画やライトノベルなどで出た利益の余剰で文芸誌は作られているような状態。実際に購入している個人の数は、人気の同人誌と同等かそれ以下であったりしました。もちろん、佐々木中さんのように文学の勝利を高らかに歌う人もいるけれども、言ってみれば、手に取る個人はマニアな少数派の層であって、「大衆」に訴えるようなことは基本的になかったと言えます。また、少数派のための、という存在意識もあった。そして、やはりそこには続いてきたコミュニティとその継続による「権威」も存在している。ただ、大文字の社会ではなく、ひとつの「業界」になったことは確かでしょう。もちろん、それはただ責められるようなものではありません。なぜなら、多様さは社会の豊かさの指針の1つでもあるわけだし、それによって守られたものは沢山あるからです。しかし、その島宇宙の成立は、時代の変化への無関心や「権威」に基づく上から目線によって形作られていたのではないか、ちゃんとアップデートしていればもっと多くの人たちに読まれる価値のあるものなのではないか。内側にいる意識があるからこそ、そういう問いが生まれてくるのも当然なのではないでしょうか。そのような問いの中から「ゼロ年代批評」もまた生まれたように記憶しています。

言ってみれば、始まりは生き残るための「実験」であり、多くの人に届いたことの根拠が「売れる」ことだったのです。けれども、それがいつの間にか正しさの根拠になっていったようなところは確かにあった。その輪の中心的な存在であった東さんはともかく、その周囲の批評クラスタの人たちは、売れることと正しさが直接的に結びついていたようにも見えました。また、そう考えるのが「頭がいい」という風潮も生まれていた。そこにはある種の思考停止があることも確かでしょう。ただ、やはり新しい流れを作ろうとすると様々な反応があることも世の中の常なわけで、その中で生き残るには「コミュニティ」の生成が必要だったという側面も理解できます。何らかの後ろ盾がない場合は特にそうです。僕はある現象を「政治」的に把握する時、世の中の現状にどのようなベクトルをもたらすかで判断します。何をどのように守るのか、何をどのように変えるのか。言説内容だけでなく実際の機能を、ですね。何故そういう風に考えるかというと、物書きが記している内容、存在と世の中にもたらすベクトルは必ずしも相関関係にはないからです。僕はそのことが日本において「言葉が軽い」ことの原因のひとつだと思っています。

あと、本稿でポストモダニズムについての言及がありましたが、僕もやはり東さんは現在もポストモダニストだと思います。最近、「切断」の重要性とかツイートしてたように記憶していますが、それはポストモダニズムの思想と無関係ではありません。「切断」のひとつの応用の形として「放っておく」いうのがあると思うのですが、東京の文化的特徴、もっといえばオタク的態度と共にその可能性を未だに思考しているように見えます。どのような日本社会を目指すかという点においては東さんは一環しているように見えるのです。ていうか、僕はその点しか見ていないと言っていいかもしれない。

僕はお二人の経緯とか歴史を遠巻きに見ていたので、色々感情的なあれがあったことも多少は知っています。ただ何か不幸なように思われるのは、それを業界的な「政治」に利用されているように見えるところです。このタイミングでこの論考がネットに掲載されたこともやはり理由がありますよね。ある種のトラウマ的な経験を乗り越えないと藤田さんも次に進めないということも理解できるけれども。それは勇気を伴うものだとも思います。

もしこの議論に東さんがのっていくのなら、日本におけるひとつの「論壇」の再起動にも寄与することになると思います。けれども、それは難しい。何故ならば、少なくとも現状においてこの批判に答える必然性がないように見えるからです。藤田さんはその議論が成立するための「土俵」を作っている最中なのかな、と思いました。そして、その批判から問いを生成する手つきはとても肯定したいものです。

以上。

photo by: Loozrboy