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第1章 「旅」を形作るもの

 意識的に「旅」を住処とするようになって、もう1年半以上の月日が流れた。そんなにも長くなく、また短くもない時間だが、「旅」が日常と化するには十分な時間である。しかしこの日常化した「旅」とは、どのような形態を持ち、どのような生活を形作っているのか。そのことを、ここではちょっと考えてみながら、「旅」と「旅以外」について綴ってみたいと思う。

1-1. 「旅」は「移動」への意志でつくられる

 私の現在の生活を「旅」として定義しているファクトのひとつは、定住する場所を持たず、旅人をメインの顧客とした世界各地にある宿泊所を転々と泊まり歩いている、ということだ。つまり「旅」とは、その居住スタイルが構成要素のひとつとなっている。例えば東京で、アパートやマンションを所有したり借りて生活している人を、一般的には「旅人」と定義することは少ないだろう。抽象的な意味でそう表現することは別として。

 つまり一時的な仮の宿で生活していることは、旅人にとって重要な要素なのだ。ある期間、定住を前提としない生活を送ること、それが旅人を旅人たらしめる要素といえる。けれども、仮の宿に住んでいればそれで旅人になるかというと、必ずしもそうではない。たとえば、ホームレスの人びとや震災などで仮設住宅に住んでいる人びとを「旅人」とはいわないだろう。

 厳密な意味では、その居住スタイルだけでは、「旅人」であることを定義することはできない、ということになる。そこには帰る場所があるのかないのかという問いも。「故郷」があるのかないのか。それも含めて「旅人」という概念を規定をしているのは、点と点を結ぶ「移動」への意志のようなものだ。

1-2. 「旅」は単なる消費行動にすぎない?

 それはつまり、このように言い表すことが可能だろう。あらかじめ「移動」するという自由意志を持って、ある場所を訪れる存在。ここではどこかへ「移動」したいと思い、それを実行すること。それが「旅人」というものなのだと。つまり、最初からその場所と深くコミットすることを前提とせず、ある場所を訪れる存在ということになる。

 定住を基本的な生活スタイルとしている現代において、「旅人」とはなんと不真面目な存在として目に映るのだろうか。たとえば、海外で日本人に会うと、「旅人」たちの立場は、現地で働く駐在員たちに比べてかなり低くみられることが多い。とくに長期旅行のバックパッカーとなると、それはほとんど無条件的な差別に近いほど、ヒエラルキーの下層に置かれているという実感をもっている人も多いのではないだろうか。

 そのような位置づけになっている理由は、ほとんどの旅人たちが、その土地における責任を負っていないことに由来している。もちろん、旅人は訪れた土地にたいして、仕事を創り出すきっかけになったり、じっさいにお金を落としていったりもするわけだが、働きもせず生産的な営みからは外れたものとして見なされがちだ。だが、「旅」は本当に単なる消費行動にしかすぎないのだろうか。

1-3.「旅」を通じて「旅以外」をみつめる

 たしかに「旅人」は無責任で不真面目な要素を含んでいる。だが「旅」自体が、人間社会のなかで価値のないものとされているわけではない。いまでも趣味の世界において、「旅行」は定番中の定番となっていることからもそのことはわかる。けれども、それがメインになると話は違ってくるのだ。つまり、「旅」というものは、人が生きていく上でメインとなるものではなく、サブとしての役割を担わされているといえるだろう。

 その暗黙の了解のもと、「旅人」への社会的な価値判断は決定されている。つまり「サブ」であることを「メイン」にしてしまっていることに対する嫌悪感のようなものが、そこには発生している。その感情は、実際に現代社会を回していくためのルールが身体に刻み込まれている結果として現れるものでもある。つまり「定住」を前提をした社会における、危険で排除の対象となりえるようなノイズのように感じられるのだ。

 しかし、人間社会は歴史的にこのノイズをうまく取り込んで機能させた実績も持っている。たとえば、「まれびと」という概念もそれを説明するときにひんぱんに使われるものだ。次回、この「まれびと」という概念をはじめに使いながら、現代における「『旅』とは何か」という問いを深めてみたい。その問いは、「旅」を通じて「旅以外」のものを見つめる視座へと深化していくだろう。

(続く)