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1. 「ポスト・トゥルースの政治」の時代を考える

 世界最大の英語辞典「オックスフォード英語辞典」は、2016年を象徴する「今年の単語」として、「post-truth」を選んだと発表。この言葉の意味は、「世論形成において、客観的事実が、感情の個人的信念に訴えるものよりも影響力を持たない状況」とのことを指すという。たとえば、イギリスの「EU離脱」やアメリカ大統領選でのドナルド・トランプの勝利などがそれにあたるとされている。つまり現在は、「ポスト・トゥルースの政治」の時代というわけだ。

 ここでいう「ポスト」とは「重要ではない」という意味で用いられている。また、そのような状況を作り上げているのは、情報源としてのソーシャルメディアの台頭と、エスタブリッシュメント(既得権益層)が示す事実への不信の増大が土台になっていると分析もされているそうだ。

 ただこの説明だけだと状況の説明としては充分ではないように思われる。この「ポスト・トゥルース」という状況が、私たちをどのような場所へと運んでいくのか。ここでは、そのたどり着く場所の手がかりになるようなものを可視化してみたい。おそらくそれは、誰もまだ言語化に成功していない。うまく言葉や理論や説明したように見えていても、それは既存の言葉や理論によるもので、ある種の精神分析的な「納得」のレベルを出ていないように思える。新しい状況を説明しうる新しい言葉、概念、理論。それをここで探し出せるかどうかは分からないが、自分の思考の痕跡のようなものを、ここで残しておこう。

2. グローバリズムとリベラリズムの共闘関係

 日本にとって、もっとも「ポスト・トゥルースの政治」としてその影響がリアルに感じらるのは、アメリカでのドナルド・トランプの大統領選における当選とその後の政治についてだろう。当初、マーケティングを使用しながらもエキセントリックともいえる発言が強みともいえるトランプは、もともと泡沫候補のようなものとして日本でも報道もされていた。けれどもみるみると有力な大統領候補となり、ついには勝利を勝ち得ることになった。基本的に日本のアメリカとの外交は、いわゆるエスタブリッシュメントとの間のものを想定していたこともあり、この選挙の結果は大きな衝撃を与えることになったようだ。

 この選挙において、エスタブリッシュメント勢力と親和性の高い思想はいわゆる「リベラル」と呼ばれる思想だ。このことは、あまり多くの人びとは意識していないかもしれないが、エスタブリッシュメントが作り上げている下部構造に対して上部構造のようなものが「リベラル」となっている。そう考えると多くのことに説明がついてくるのだ。つまり、現在のエスタブリッシュメントは、グローバリゼーションの政治・経済におけるルールの構築とともに、リベラルな思想を広めることで成り立っているようにみえる。

 そのような思想を広める効果とはなんだろうか?拒否感のようなものを持つ人もいるかもしれないが、リベラリズムと資本主義はとても相性がいいということだ。たとえば、マイノリティ擁護はその理念的にはもちろん人権問題とつながっているものだが、差異を生み出し貨幣価値に変換し商品を生産・流通・消費していくシステムをうまく回していく思想でもある。つまり、グローバリズムとリベラリズムは、資本主義という点において、共闘関係を築いている。植民地主義の時代のキリスト教が、現在ではリベラリズムになっている、といえるかもしれない。リベラリズムは「普遍」をうたいながら、統制のためのイデオロギーとして機能しているという側面があるのだ。

3. イデオロギーとしてのリベラリズムの抑圧が引き起こすもの

 しかしその共闘関係によって、抑圧された欲求があることも容易に想像できる。グローバリゼーションでの人・金・モノの国境を超えた移動は、商品やサービスを安価なものにしていき市場を満たしていくが、人件費の大幅なコストダウンなどによって、豊かになっていく市場とは反対に、貧しさや惨めさを体感する人も増えてくる。つまり、グローバリゼーションは、世界全体の富を増大していく(絶対的貧困を減少させていく)と同時に、先進国の国内に第3世界をつくっていく(相対的貧困を増加させていく)わけだ。しかも国家の予算を形作る税金の負担は増加傾向にあるのにもかかわらず、お金がなくて医療や教育もまともに受けられず社会階層間の移動が困難な人びとが増大してくると、イデオロギーによる隠蔽と抑圧、それによる統制は限界を迎えることになる。

 そしてそこに、抑圧を感じていた層の人びとの連帯が作られていくのだ。トランプはその再統合の依り代のような存在に、結果的になっていく。攻撃の対象としては、そこで形成された「仲間」以外へと向かっていく。トランプの例でいうならそれは人種による区分けになる。そして、その攻撃性を抑圧するリベラルな思想も攻撃対象となってくる。「仲間」内と「仲間」外を確定することによって、つまり「敵」を作り出すことによって、その連帯は強固なものになっていくのだ。

 アメリカは多民族国家といっても、国民の多くの民族は異なる民族の人びととの親しい間柄を築けていない。つまり、自らの生活圏で異なる人びとと実際に接触する機会がほとんどない。社会はゾーニングされ、言語や人種によって生活空間は事実上かなり区分けされている。聞くとことによると、人種のるつぼとしてさまざまな人種が平和に暮らしているイメージのあるニューヨークでさえも、ゾーニングは明確な事実なのだと、現地に住む日本人からも聞いた。つまり、お互いはお互いをほとんど意識せずに、何を考えているのかをほとんど知ることもなく暮らしている、ということのなのだ。

 そうなると、ヘイトスピーチなどで煽って「敵」をつくることも容易になる。何もいわない相手に対して一方的に意味付けすることは簡単なことなのだから。しかもその攻撃対象は、日々、なんとなく意識されているようなものであることが重要だ。つまり、アメリカに住む結構な比率の人びとが、異民族という存在に対してフラストレーションを感じていた、ということでもある。深い接点はないにも関わらず。

 異民族に付随するイメージのリアリティは、日本に住んでいるとあまり理解されにくいものかもしれない。だが日本でもたとえば、一時期、中国人たちの爆買いや旅行中のマナーの悪さみたいなものを嘆く人びとがいたし、そういった現場を見たことのある人もいるだろう。そのようなアティチュードは海外旅行になれていないなど理由があるわけで、日本人もその道を歩んできたわけだが、それがそのまま、欧州やアメリカの公共空間で行われているとイメージすると解りやすいかもしれない。まだ日本では「あっ、あれは中国からきた観光客だな」と分かるだろうが、西洋人から見れば、中国人も日本人も韓国人も同じにみえる。つまり「アジア人という人びとは」というふうに、人種をまとめてみる人びとが圧倒的に多いのだ。

 そういったある自分たちとはまったく文化的な背景の異なる勢力に対するフラストレーションが、人種差別のリアリティにつながってしまっている。つまりどこの国の人ではなく、わかりやすく「人種」なのだ。些細のことが、日常における差別を肯定するトリガーにもなっている。場所のマナーも守れない、同じ一個人としてまともに話もできないような「人種」として、軽蔑の対象となってしまう。しかもそれらが、自分たちよりも経済的に豊かにみえるのであれば、フェアではないと感じ、そこに生まれる「負」の感情はなおさら増大して攻撃の正統化へと向かうだろう。その部分もトランプは明確についてきている。

4. 反グローバリズムとコミュニティ境界線の引き直し

 また、この「ポスト・トゥルースの政治」の時代は、反グローバリズムの流れのなかにある現象ともいえる。反グローバリズムは、もともと政治の右左どちらにもあった動きだが、実際そこからはほとんど成果といえるものは出せていないようにみえる。しかし、市場のなかで売る側にとって都合の良い「消費者」として最適なマインドが作られていった結果、それがあるとき、反グローバリズムのほうに欲求の流れが向かったのだ。まさに、市場だけでなく、政治までも心地よさやスッキリすることが重要になってきている背景には「消費者」マインドがある。この「ポスト・トゥルース」という現象は、そこに住む人びとが市場の中で培ってきたメンタリティと響き渡っているのだ。つまり今起きている現象は、まぎれもなく資本主義と民主主義の合作なのだ。政治をもマーケティングで行うという状況が、ついにはエスタブリッシュメントを攻撃するにまでに育った、ということである。

 そこで立ち上がったてきたのは、素朴は生き物としての反応のようなもので、たとえば、肌の色とか言語、文化などが違うと自分たちの仲間とは思えないという根の深い人種差別である。トランプが世界中に人種差別肯定のメッセージを発してしまったのは事実だ。「リベラル」はすべての人びとは人種に関係なく皆「仲間」であると主張するわけだが、そのようなリアリティを感じている人は、じつはかなり少ない。それは日本だってそうだ。例えば、日本でそれなりに文化人であり知識人だと考えられている人びとでも、実際にたとえばイスラムなどの話をしたりすると、ほとんど無条件に顔を曇らせる人までいたし、ふつうにフェアではない権力闘争やいじめのようなものだってある。はっきりというと、日本における「リベラル」な人びともその思想は体現できてはおらず、その内部には確実に差別意識を温存している。

 つまり、ただ「人種などの違いは関係なくみな仲間」といっているだけでは、その差別の解決にはつながらなかった、ということである。そこには事実の隠蔽と抑圧があり「リベラル」であると表明することが、その免罪符のようなものとして機能しているだけなのだ。ではそれを根本的に解決するためにはどうしたらよいのか。それこそ今、「リベラル」が考えなくてはない問題であって、今の状況をただ「反知性主義」などどいっていては、今後のずっと現状をなにも変えることができないだろう。

 つまり私がここで言いたいのは、「ポスト・トゥルース」を「反知性主義」と同一化した形でいくら批判してもまったくどうにもならない、ということだ。そこにある欲求のロジックをつかみ、そのなかに入り込んでズラしていくこと。それこそが、重要なことなのだ。「リベラル」は、現状おこっていることをうまく説明することのできる言葉を持っていない。既存の理論に当てはめて批判するだけでは、今起こっていることがどういうことなのかと大きく見誤ることになるだろう。ただ自らと同じ意見の人びとの囲まれた環境のなかでありきたりな批判しているだけでは、自分の所属するコミュニティを強化するネタにしているだけだ。それはひとつの閉鎖系であり、「普遍」の実現とはほど遠い、自らの理論からもかけ離れた実践なのではないだろうか。ただ自分の所属するコミュニティの言説だけを信じて、そのなかから出ようとしないのならば、批判している「ポスト・トゥルースの政治」の当事者たちと同じだということができる。

 今起こっているのは、当事者たちにとっての、リアリティのあるコミュニティの再統合・再構築による、反グローバリゼーションの流れだ。つまりイデオロギーではないかたちでの(良くも悪くも生き物的な)、コミュニティ境界線の引き直しなのである。しかもそれは政治においてマーケティングという手法が依り代になっている。そう考えるのならば、これをどのように扱っていけば良いのか、その糸口も見つけることができるのではないだろうか。

(了)