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3-1 「旅人」の「政治」における機能

 「旅人」という概念は、「政治」という概念からとても遠い存在のように考えられているかもしれない。例えば、旅行産業などによって経済の対象ではあるとはいえ、それが「政治」とどのように関係を結ぶかについては、あまり意識の遡上に登ることはないのではないだろうか。つまり、「旅人」とは消費者としての「経済」的な存在であり、「政治」的な存在ではないと考えられている傾向がある。

 しかし「旅人」は政治性を身にまとってた存在だ。それを可視化するために、ヴァルター・ベンヤミンの「フラヌール(遊歩者)」という概念を導入してみたい。ベンヤミンはこの「フラヌール」という概念を使いながら、彼の生きた当時の都市の変化や形成を眺めていた。「フラヌール」は、その都市の仕組みのなかに組み込まれた存在というよりは、そこから少し距離を置いて眺めることのできる存在として考えられている。そこにある生成・変化の構造のなかに没頭してしまうと、その構造を外部から眺める視点は難しくなっていくからだ。

 その構造をどこから眺めるかが、その構造の把握のあり方に関わっている。そして、この「フラヌール」的な視点は近代の視点ともかぶったところがあるのだ。なぜかというと近代は、合理的なシステムを作り出す運動のようなものであるが、それは個々人の視点を個々人の視点として終わらせるのではなく、その上に抽象度に高めることによって生成されるからだ。つまり、「フラヌール」的な視点というものは、近代的な視点と似ているところがある、ということなのである。

 そういった意味で、「フラヌール」はその構造に「政治」的なポジションとして回収されうるのである。

3-2 「旅人」から「政治」を奪うもの

 その「場」の構造の中に回収された「フラヌール」は、その構造を眺めるものとして役割を与えられている。その役割は「場」の政治にとって、為政者と近しい存在にもある。ただ権力を有していない視線としてである。しかしその場には、当然のことながら利権の構造があるわけで、そのなかに「旅人」を位置付けることは、なかなか難しいことだ。その利権構造の内側からすれば、「旅人」をその場を構成する要員として認めてしまうと、その利権の正当性を揺るがしてしまう可能性すら含んでいる。そういった存在は、多くの場合、体制側から「差別」の対象となるが、それを単なる消費者として見なすことで、その危険性を中和していくわけだが、「旅人」という存在は、基本的にその場の政治的な構造を変えてしまう可能性をはらんでいる視線を持っている。その場の政治的な構造を変えないことによって、その場の攻撃性を「旅人」は受けずに済んでいるのだ。

 けれどもその危険性は、逆にその共同体の利益に還元することもできるものでもある。距離を置いた「近代」的な視線によって、その「場」の評価をすることができるという点にある。つまり、その構造のなかにある存在にとっては死角のようになってしまっているポイントが、「旅人」には見える可能性があるのだ。もちろんそこには消費者という視線が強く入りがちなことも見落としてはならないが、そのポイントへの気づきのようなものを「旅人」はその構造の内部に対して与えることができるのだ。けれども、それには条件があるだろう。それは「旅人」がその場の構造に関して感情移入していない、ということだ。その感情を持ってしまうと、視点が限定してしまい、その場の住人たちと同じ視線に同調しようと無意識に考えてしまう。消費者としての立場と「場」への感情移入、それが「近代」的視点を奪ってしまう。

3-3 「旅人」のもつ暴力性

 この特定の構造物に対する愛着の問題は、近代的な視点の可能性をはらんでいるはずの「旅人」から、その特権的な視点から追いやってしまう。なぜなら、その感情が共同体への参加を意味しているからだ。つまり、政治とは感情のバランスのようなことを意味しているわけだ。その感情の落差のようなものが、その構造に機能をもたらしていたわけで、それが同調してしまうとその特性は失われてしまうのだ。つまり「旅人」は、その場に感情移入しすぎていないために、その機能を発揮することができる存在なのである。

 そのことはもちろん「旅人」のもつ暴力性ともつながっている。全く感情移入せず、その場に消費者として訪れた時、その暴力は最大限に発揮される、例えば、消費者の貨幣によって、産業構造が変わり、その消費者に依存したかたちでの場の構造が生まれてしまう。そして、その消費者に感情がない分、その場で産業に携わっている人びとは、訪れる人びとをただ「お金を落としてくれる存在」として眺めてしまうことになってくるのだ。これは、自らの共同体と外からくる「旅人」の間での差別意識にもつながってくるものだし、その産業構造の変化によってもとの共同体が解体されるに至ると、その視線は自分自身へも向かっていくことになる。これをもってして、「旅人」の持つ攻撃性というものは、その地域のメンタリティをも大きく変えてしまうに至るわけである。

 そこには確実にコントロールの正統性が表出している。ここに資本主義社会の暴力のようなものも表出しているのだ。次回では、「旅人」と「資本主義」について考えてみたいと思う。