二項対立の上を自由に移動することの精神衛生上の効能について。

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今日、なんか最近調子が悪い原因のひとつが分かった気がした。それは、物事を考える上での方法論みたいなものに原因があるように思う。そこが強張って動けなくなっていた。つまり、自分を掘り下げることで世界を規定する演繹法的な思考と、世界の現状から自分を規定していく帰納法的な思考のバランスが崩れていたからではないかということだ。

このふたつの思考方法は、経験論と合理論という風に理解することもできるが、このふたつの方法論を結ぶ線の上を自由に行き来しながら、動的に自分と世界とそこにある関係性を結び直し続けることが困難になっていた、ということである。もっと言えば、演繹法的、経験論的に思考することに囚われ過ぎていたということなのだ。なんかそのことが分かってすっきりした。

それは何か懐かしく、また新鮮な驚きのある発見だったのだが、たぶんこの日記を読んでくれている人にとってはたぶん「また訳の分からないことを言ってるな」と思われているだろうなぁ。まぁ、日記なのでそれでいいのだけれども。

しかし、歳を経て個別の経験や知識が増えていくと、そのままでは他人との溝は広がっていく。ある発言について経験的、理論的な根拠があって発せられていたとしても、その根拠を共有していないと、他人からすれば訳のわからない戯言みたいなものだ。だからある程度、その根拠の説明みたいなものをしていくことを続けていこうとは思うのだけど、それはなかなか難しい。っていうかめんどい。人とはかなり偶発的に出会うものだし、お互いの温度差とか前提とかは様々だから。だから、ある種の特化したクラスタにいる時とそうでない時とを分けることに合理性が生まれるわけだが、その結果、島宇宙が生まれて、それはそれで全体としては色々問題があるよねっていうのが最近だったけど、その論調も落ち着いてきて、今は繋がったり切れたりするバランスやコントロールって大事だよねっていうのがモードっぽい。

まぁ、元の話に戻ると、なんか座標というかそういう動ける範囲とか動的であることを感じられることって精神衛生上も大切だよねって話です。

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