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「ネット新時代は銀行不要」の現実味【2】 -対談:津田大介×古市憲寿×田原総一朗
http://president.jp/articles/-/11364

何日か前、炎上してましたね。まぁ、例の発言がどのような社会的機能を持つのかということに反応した結果なんだと思います。自分の置かれている状況から考えたら、その発言が不利益に働くから反発が起こっているわけで。古市さんは何だか今時の若者代表みたいな扱われかたしているけれど、彼が代表していると思われるのはかなり限られた階層なのだ。そのことに本人も自覚ある。そして、それを一般化して利用しようとする人たちが少なからずいて、そういう人たちの広告塔として機能しているということなんだろうね。んで、たぶん、そのことに本人は自覚的。全部わかった上でやってる。何故か。それはたぶん、その方が自分や家族、仲の良い周りの人たちにとっては得だから、と想像できる。つまり、若者の代表ではなく、ある階層の代表なのだ。

今回、「福祉」という概念についての彼の前提が一般通念とは大きく異なっていたこととも重なり一気に広まり、さらに古市さんの知名度はさらに高まっていくという形になっています。ていうか、炎上商法っていまだ有効だったんですね。

この件については、結構、明確に対立軸はあると思われるので、それを可視化するという作業をしていかないとせっかくの炎上がもったいないです。フロー型でなくストック型で議論とか積み重ねていきたいものですね。なので、ここではまず、コンフリクトの原因のひとつである「福祉」という概念について考えてみたいと思います。

Twitterとかでは、なんか「福祉レジーム」論とか出てきてて若干の空中戦感が醸し出されておりあれだったのですが、ここではその理論を構築したデンマークの社会学者・エスピン=アンデルセン氏の言説をwiki先生とか参照しながら見てみて、まず古市さんがイメージされている「福祉」という概念を把握してみましょう。その先に炎上の原因も見えてくるのではないかと思います。結論を先に言ってしまえば、この炎上は、日本においてこれからどのような政策を取ることが妥当なのかをめぐるイメージ戦略と関係している、ということです。

アンデルセンは「福祉レジーム」(レジームは体制って意味)の成り立ちをみる時に、その基準となる指標を3つ挙げました。それは「脱商品化」「階層化」「脱家族化」の3つです。それぞれ以下のような意味合いとなっています。

①脱商品化
疾病や加齢などの理由で労働市場を離脱した人が生活を維持できるか否かの指標であり、給付の水準と受給資格によって計測される。

②階層化
各人の階層や職種に応じた給付が行われた結果、格差が固定化されているか否かの指標。
(福祉国家は階層化を否定しているわけではなく、所得再分配は平等化を促すと同時に貧困低減と、不平等をある程度是正を目指すもの。)

③脱家族化
家族主義の反対。家族への個人の依存度を軽減する方向性。例:女性の独立には福祉義務の脱家族化が必要、など。

この指標が示すように福祉レジームは、国家だけでなく、市場や家族にも分配される総合的なかたちをとっているのです。古市さんの「すき家は福祉」発言はこういった「福祉」のイメージから発せられたものと想像することができます。

しかし、この記事の社会的な機能を考えた時、「福祉」に関して公的に特に何にもしなくても市場でそれも賄えてますよ、ちゃんと健康で文化的な生活を送れてますよ、というメッセージのように響くんですね。それに対して、赤木智弘さんのような批判がカウンターとして繋がっていく。社会を消費行為という一面で一元化して、そこで働く低賃金で疲労度の高い労働を止むを得ずしなければならない人たちの人生とかに尊厳とかあるの、どうなの、と。

「古市アントワネットと津田16世の対談がダメすぎる件」
http://togetter.com/li/607449

つまり、選択肢のひとつである状態とそれを選択せざるをえない状態に押し込められていることは、表面的には同じように見えても全く違うのだということです。後者への尊厳は保たれていないのではないか、という疑問が浮かんでいるわけです。そして、公的な福祉自体に力を入れる必要性を否定したい人たちにとって喜ばれる内容となっているのです。市場原理で今現在上手くいっていることを前提にしてしまうと、増税をしながらも公的な福祉を削るという方向性、つまり、非正規雇用などの低賃金労働者は、税負担やインフレによる出費の増加に加え、安い商品の実現のために賃金は据え置きのまま激しい労働をし、さらに公的な福祉まで削られるという踏んだり蹴ったりな流れに逆らえません。

古市さんとかの階層は、はっきり言ってこの辺のデメリットとかほとんど受けず、結婚し子育てをし、その子どもに高等教育を施すことができ、和かに暮らしていけるでしょう。たまにマックとか食べながら。けれども、今すでにギリギリの人たちは、今もそのようなライフプランすらをたてられないでいるのです。婚活とか流行り出したのもそういう流れの中からじゃないですか。

それは自己責任論の肯定にも繋がりかねない。でも、世の中にはどうしようもなくスタートする場所や環境が異なる人たちがいるのです。さらに階層間の移動の状況は、日本では随分なくなってきているはずです。少子化も階層間の移動の現象も「現代っ子」ということで片付くものではありません。今は好景気らしいので、末端まで働く人たちの給料が上がり、そしてその人たちが死ぬまでのライフプランが無理なく描けるようになるにはどうすればいいのか。

じゃ、どこまで「福祉」を考えればいいのかという話になるかもしれませんが、これは僕の直感的なものですが、行政の定める最低賃金で週40時間の労働することで、個人の尊厳が守られる一生涯のライフモデルが構築できることが、目指すべき目標のひとつだと考えています。もちろん、これは理想論。でも、現実を理想に近付けるにはどうしたら良いのか。そのように考える人がもっと言論の世界に増えて欲しい。

「富めるものの義務」。そんなものを期待する根拠も何もないですが、何を言おうが個人の自由ですが、行くところまで行かないともうそういう根拠を作れないのかなとも思いはじめました。つまり、人の尊厳を認めない人に尊厳を認めることはないという、そのような状態を経由しなければ、何も変わらないのかもしれません。それは今まで歴史上繰り返されてきた悲しい記憶なのですが、それを我が事のように共有するのには僕たちはまだ幼すぎるのかもしれません。

(了)