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TV Drama Shooting

この前、ある刑事もののテレビドラマを観てみたんだけど、改めて、テレビドラマにおけるネットの表現ってけっこう差別的だなと思いました。その回では、ある殺人の容疑者(犯人)がネットでミステリー小説の批評をしている男性だったんです。刑事もののテレビドラマって、ネットを不気味なものネガティヴなものとして表現してるケースが目立つようには思っていたのだけれども、今回、その犯人の人物像の設定がいつもより多めに自分と被っている点が多かったので、余計に不快になりました。

ネットに対して否定的な表現をする理由のひとつは、今の若者たちの可処分時間の過ごし方が変化していることにも由来しているのかもしれません。テレビを観ずにネットで事足りてる人びとが増えてくる兆候があって、それに対して、テレビがネガティブキャンペーンをはっているということもあるのではないでしょうか。言ってみれば、印象操作、世論操作ですね。あとは、世代によってはデジタルデバイドというかネット文化についていくことができなくて、視聴者の側からもネットを軽蔑するような表現に需要があるということもあるのでしょう。あとまずないとは思いますが、ガチの無自覚とか。

話をそのドラマに戻すと、その中で描かれてたネットの批評家は、自尊心の埋め合わせとして批評をしていたという設定になっていました。僕も多少は批評クラスタにいる人間でもあり、また、ネットでもレビュー書いて放流していたりする身でもあるわけなので、正直、このような表現は誤解を生むものだと思いましたよ。今、オンエア中のドラマ「明日、ママがいない」でも誤解を助長する表現が問題になっていますが、助長する仕組みとしては同形のものなのではではないでしょうか。放送やめろとは思いませんが。

ネットでの批評行為がリアルでは満たされることのない自尊心を満たすための代替行為だとされているという設定。ここに二つの偏見が助長される要素があると考えます。まず、ネットというメディアについての偏見。そして、もうひとつは批評という行為について偏見です。まぁ、そういう憂さ晴らしとか日常生活のガス抜きとして使っている人もいるのだろうけれども、そういった行為はネットの専売特許ではないはずで、この世の中ではそのような代替行為は他にも沢山ある。言ってみれば、この社会の趣味と呼ばれるもののほとんどは、ある程度そのような色彩を帯びているものなのではないでしょうか。

僕自身はネット上での批評行為をどのように捉えているのか、ということになのですが、まず、その場としているネットというメディアをどのように捉えているのかっていうことが、その把握の前提になると思います。ひとことで言えば、それは「公共圏」である、という認識です。その前提から始め、その中でどのように振る舞うのか、というところに問題意識を持っていきます。それがネットにおける批評論のコアとなっていく。

「公共圏」では、様々な日常生活や多様なトピックでの議論などが展開していますが、日本のインターネットはまだまだ「残念」な状態で、安定した議論の蓄積する「公共圏」としてはまだまだ成熟しているとは言えません。ですがそのような状態の中で、自分ができることは何かを考える。僕は本が好きだし音楽も映画も演劇も好きな文化系人間です。そのような関心を持っている人間が今のネットの中で出来ることを考えると、例えば、とても面白いように思えるのにまだ皆に知られていない人物や作品を、何故それが面白くて観るべきものなのかを説明したり、読み手にその人物や作品との出会いのきっかけを与えることが出来るのではないか、ということなのです。その場として紙やネットといった媒体の違いは、目的のあとに訪れるものです。ちょっと大げさに言えば、どのような作品や人物をどのように紹介するのかということ自体に、僕がネットという「公共圏」の中で出来ることの1つだ考えている、ということになります。

実際、僕の書いたレビューから作品を買ってくれている人たちもいるし、ごくたまにそれなりに記事が拡散する時もあるし、リアルでも読んでくれた人との会話の話題になったりとか、色々と社会的な機能を果たしているわけです。一応、日本のネットをいかにして「公共圏」として育てるかということも意識しているわけだし、確かに自分の快楽とか欲望とまったく結びついていないわけではないかもしれないけれども、それなりにこれからのメディア環境と民主主義のこととかも考えていたりした結果の行為なわけなんですよ。ちょっとメタ的に言えば。

ネット上でのレビューとかって文化人などからしても、やっぱり価値の低いものにみられるじゃないですか。実際、自由勝手気ままに書いているものではあるのだから、それは当然とも言えるところはあるのだけれけど、大手出版社から発売されてたからって、それだけで内容が素晴らしいわけではなくて、内容が素晴らしいから素晴らしいというのが基本だと思うんですよね。もちろん、長い年月を経て培われてきた蓄積があるから形式に権威も発生するのだけれども、それは必ずしも内容のクオリティを保証するものではない。色々な力学がそこで働いているからね。つまり、形式や世間一般の価値によってその多くは判断されているということは、受け手は内容を吟味する力を付ける機会を失っているということもあるのではないでしょうか。そこにも新しいメディアであるネットの可能性というか意義もあるように思うのです。

それに民主主義といったシステムを考えた時も、議論は形式で決まるだけでなく内容を吟味する習慣や力が必要なのではないでしょうか。僕たちは専門的なことは専門家に任せて、あとは「空気」というか世間的な雰囲気によって選択をしているして、それを自らが思考していると思い違いとしているところがありますが、そのような状態に如何に介入していくのかも、今日の日本におけるネットの批評行為の役割の1つなのではないか。

別に何か崇高な理想とかあってそれに基づいてやろうとしているわけではないけれども、それでも単なる自己満足の代替行為という印象を流布されると迷惑な気がします。対話が成り立たないし。ていうか新しいメディアを巻き込んだ上での民主主義のかたちへの強いブレーキをかけられているように感じるのです。過剰に持ち上げる必要もなければ、貶める必要もない。そこには経済的、政治的な力学が働いているのは分かりますが、公共の電波を使用して叩くというのは一種の社会問題なのではないかとさえ思えてきます。普通に歩いてたら後ろから頭叩かれたような気分になりましたよ、ほんとに。