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「批評」って今、一般的にはあまり良いイメージじゃないですよね。その原因のひとつは、「批評」があまり生産的な行為とは考えられていないからではないでしょうか。

現在の日本社会では、「批評」は「批難」に隣接したものとして把握されている気がします。しかし、「批難」は世の中に溢れているわけですが、「批評」は全く溢れて出していません。

つまり、「批評」と「批難」は似て非なるものということです。時として、「批評」は「批難」を部分的に含むことはありますが、基本的にその行為が開始される動機が異なります。

「批評」において、その行為の根底にあるものは対象の肯定です。まず対象の価値を認めるところから出発し、それを活かすために行われるものが「批評」。一方、「批難」は、対象の否定から行為が始まります。その反感を表現することで生まれるものが「批難」といえるのではないでしょうか。

つまり、「批評」と「批難」との間には、開始される動機が肯定なのか否定的なのかという違いがある、というわけですね。ただ、その行為を社会的機能という側面から捉えた時、ふたつの間には非常に近しい表象を見て取ることができることも確かです。

二つの社会的機能が似る理由は、否定という行為が対象に依存することで成り立っているからかもしれません。つまり、否定もその行為者の置かれている状況や環境を強く反映するものであり、そこには生物学的、社会的な必然性や機能が刻印されている、ということですね。言ってみれば、知らず知らずのうちに自浄作用のようなもの、バランスを取るものとして立ち現れていることがある、ということ。

さて、前置きが長くなりましたが、僕がこんなことを書いているのは、最近気になってるもののひとつに、関西地域で活動してる「一般批評学会」というグループがあるからです。

この学会の活動内容は、「あらゆる専門性の外側で行われる批評的な営みと、それが社会的にどんな意味があるかを、みんなで考える」こと。また、ただ考えるだけじゃなく、そのための方法を開発・実践したりもしているみたいです。

楽しそう。この楽しそうってことが、とても大事なことだと思います。

「批評」クラスタって、自分もそういう傾向があるから言えるのだけれども、自意識過剰系の人が多いんですよね。その過剰な自意識を小難しい作品なり理論なりを理解することで満たそうとするとか。そういう人たちから「批評」を解放すること。「一般批評」が目指しているのは、そういうビジョンのような気がします。

それにたぶん、専門家ではない人たちが「批評」を嗜むということも、重要なことなのではないでしょうか。何故なら、それはただ娯楽の消費だけに留まらない文化を育てることになると思われるからです。専門家の必要性が減少するわけではないですが、それと同時に一般的な知性も育てていく必要もあるように思います。その一般的な知性を育むのに、「批評」はとても良いプラクティスなのではないでしょうか。

一般批評学会HP
http://www.strikingly.com/ippanhihyo