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1、「ぼくら」vs「ぼくら」

今回の家入一真さんの都知事選に関して、様々な論者から批判的な意見が寄せられている。その中で多く読まれているもののひとつは、常見陽平さんのこの記事だろう。

家入一真さん、「ぼくら」って「ぼくら」なんですか? 
http://t.co/mSUHYtqnBi

この記事では、家入さんのいう「ぼくら」という主体の定義が曖昧としていて、さらに閉鎖的なイメージしかないことを指摘している。この見解には、いつもの常見さんの「意識高い系」批判との連続性を見てとることもできるし、そこは一貫しているといえるだろう。

だがしかし、ここでいう「ぼくら」の中に常見さん自身が入っている気がしないということで、その言葉を批判するというのは如何なものか。これは言ってみれば、常見さんの「ぼくら」と家入さんたちの「ぼくら」のコンフリクトに過ぎないのではないだろうか。

家入さんが結党を発表した「インターネッ党」では賛同者を公示しているし、その人たちとその支持者たちがその「ぼくら」と言ってもよいだろう。賛同者に名を連ねている評論家の宇野常寛さんに至っては、その主張として、IT企業の社員をコアにした新しいホワイトカラー層とか新しいリベラル層だとか、結構具体的に指摘しているはずなので、その層も「ぼくら」として意識されていることが予想される。

つまり、ここでは「あなたたちのいう『ぼくら』には僕は入っていないし、その範囲は狭いよ!」と言っているに過ぎず、それは単なる「ぼくら」を巡る闘争でもあるのです。既存の政党で言えば、「国民とは誰か」問題と類似したものですね。それぞれの党で支持層が違うんだから。結局、選挙とは、「ぼくら」対「ぼくら」ということでもあるのだ。

2、選挙に出る意義

さらに都知事選へ出馬して落選したことにも言及されている。とにかく泡沫と呼ばれた中ではトップだったとはいえ、そんなことは関係なく、落選したのだからただの「惨敗」なのだ、と。

確かに落選したことは事実だが、それが本当に無駄だったと言えるのだろうか。

選挙という既存のプラットホームを使い、他の様々な層の人たちと同じ土俵に乗ること、それが無駄なことだとは思わない。もちろん、勝てる選挙ではなかったのは確かなことだ。けれども、自分たちが支持したい政党や候補者がいないのであれば、それを自ら作り出そうとする行為が何故そんなに批判されなければならないのか。

その行為によって損なわれるものと得られるものを天秤にかけた時、やはり後者の方が大きいと私は考えている。

今はもちろん、小さな芽にしかすぎないし、これが育つという確証もあるわけではない。しかし、地道に現状に肌で向き合い、少しずつでもこの日本社会に前向きに関わり根付こうとする姿勢に見えるのだ。

3、今後の可能性

家入さんは先日、「インターネッ党」という政党を立ち上げた。現在、発表されている活動内容は以下のようなものだ。

〈3つの活動報告〉

#01 都知事選で家入かずまが掲げた120個の「#ぼくらの政策」のうちできるものを勝手に実現していく。

#02 未来を構想して、実行できるネットコミュニティをつくるため、機関誌となるメルマガを発行する。

#03 新しい東京に変えていくため2020年までに東京23区全ての区長選立候補者を擁立していく。

この政党は、海外でも活発化している「海賊党」とも連動する動きを見せるかもしれない。「海賊党」とは、ファイル共有ソフトやブートレグCDの合法化を主張する政党だ。2006年に設立されたスウェーデン海賊党が筆頭。欧州議会選挙では2議席を獲得している。

大袈裟に言えば、私はこの動きがポスト・インターネット時代の幕開けのメルクマールとして、後の時代に語られることを期待したいと思っているところがある。

断っておくが、私は別に家入さんクラスタではない。その界隈に対する不信感も全くないわけでもない。けれども、それはこれから政治というプラットホームの上で払拭していくものでもあるのではないだろうか。現在は試行錯誤を繰り返しながら、社会に受容されるためのひとつの準備段階だと考えることもできるのではないだろうか。