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この前、TBSのPodcastを聴いてたら、社会学者の宮台真司さんが気になることをおっしゃってた。

「独身女性の結婚願望の高まり」
 http://podcast.tbsradio.jp/dc/files/miyadai20140307.mp3

ラジオの後半部分を粗く意訳すると以下のようになります。

社会におけるお金とコミュニケーション能力の重要性。
→その二つのどちらもない人はどうにもならない。
→後天的な要素の強いコミュニケーション能力なら今からでも磨ける。
→磨く場所は自分で作る!(「任せてブー垂れる」批判)。

内発性を重視するところなど、今の宮台さんの言説のシステムに準拠した論理構成になっている。けれども、なんか違和感を持ったんですね。それはコミュニケーション能力の重要性を指摘しその錬成を激励するだけでなく、その場所をどのように構築するのかということも必要なのではないかと思ったからです。つまり、社会学者の処方箋として、精神論や自己責任論に近い機能を持つような見解だけなのはどうなのかと思ったわけです。対処療法のみというか。もちろん、個人の内発性を喚起することは重要だと思いますが、それと同時に環境の変化によってそうなっているのならば、社会設計自体も変更の必要性があるのではないかということなのです。

僕の中に抜き難く突き刺さっているひとつのテーマもまた、コミュニケーションです。例えば、僕が一時期関わっていたオルタナティブスペース「あかね」を活動の拠点のひとつとしていた「ダメ連」もまた、コミュニケーションというものをひとつのテーマにしている。彼らは主な活動を「交流」と称し、様々な困難を抱えた人たちと一処に集まることで、その困難をどうにかしたり、しのいだりしていたのでした。

多くの問題を抱えた人たちが集まるわけですから、もちろん、非常に多くのコンフリクトがそこでは生じます。コミュニケーションの上手い下手で「場」のヒエラルキーが形成されたり、物理・精神両面での暴力などもありました。社会的弱者とも言える人たちが互いに傷つけ合うなんてことは日常茶飯事です。それでも皆、何かを求めて集まっていたのですね。

かつて「あかね」の中心的なメンバーの1人だった詩人の究極Q太郎さんは、ただ「群れて在ること」を肯定的に捉えていました。そこには具体的な言語によるコミュニケーションはあまり存在しない。けれども、それで良いのだと。甘えるでもなく積極的にコミュニケーションを取るでもなく、ただ「群れる」こと。この「群れ」の感覚は僕の持つ原風景のひとつとなっています。

その感覚に近いのがphaさんたちのいる「ギークハウス」でした。「コミュニケーションが苦手だからこそ、生存のために一緒に住む」という発想はまさに僕がダメ連で夢想した「群れ」の姿といっていいでしょう。それが民間におけるセイフティネットのあり方の可能性のひとつに思えたのです。

そういうこともあり、宮台さんのコミュニケーションを鍛えると言った方向性には限界があることは、身に沁みてわかっているつもりなのです。あと、まだ個人の経験論でしかないのですが、宮台さんのお弟子さんたちに対する若干の不信感もあります。僕は今まで4、5人の宮台ゼミの出身者と出会っていますが、その人たち(皆さん「できる」人たちですが)にはなんとなく共通点がある。それは、基本的に世渡り上手であることと、いじめっ子体質であることです。外交や身内を守るには向いてるかもしれないけど、彼らがこの日本社会の中で重要なポジションに就いても、世の中が良くなるイメージを持つことが正直できない。

つまり、宮台さんの今の言説は、自ら個人のコミュニタリアンとしての性質が強く出ているのにも関わらず、階層などの領域横断性があるものとして解釈されすぎているのではないかということです。お金がなくコミュニケーション能力もない人たちは、もともとその言説の対象とはされていないのではないか。そして、これも大事なことなのですが、現在、宮台さんが批判している「吹き上がり」の社会的傾向は、そのような言説では変えることは出来ず、むしろ助長してしまうこともあるのではないかということです。そこに社会的包摂の可能性はあるのかという問いが生まれてきます。

Podcastを聴きながらそのようなことを考えたのでした。