旅とは何か?」カテゴリーアーカイブ

「『旅』とは何か」をめぐって 第6章 「旅」の欲求を作り出すもの

この記事の所要時間: 353

6-1 旅することは生存すること

 「旅」が動きだすとき、人の突き動かしている欲求の起源はなんだろう。生き物がその場を動きだすときには、幾つかの欲求の起源がそこに生まれているはずだ。たとえば、住んでいた領域のなかでの適応競争やヘゲモニーの掌握の失敗など、ある程度、ネガティブな要因もそこには含まれていることもあるだろう。それは同時に、生命体の種としての領域の拡張という機能も含まれている。水が高きところから低きところに流れていくように、闘争や葛藤を生成する過剰さは外部を求め開拓することにつながり、その結果、その種が住んでいる領土を拡張していく。それはこの地球という星の生命史上、延々と繰り返されてきたことだが、この運動には、「旅」の要素があることがわかる。ここではないどこかへと向かう欲求や意志。それは、故郷などの親しみのある土地を追われた喪失感を埋めるものとしても立ちあられてくるものだが、それは生きる意志といえるものだ。また、そこにはいかにして生きるかという問いとその答えも同時に含まれている。

 つまり、生きていくこと自体が「旅」と密接に関係があるということなのだ。「人生は旅である」という常套句は、その表象であるといえる。生存すること、それが「旅」の欲求を作り出しているのだ。

6-2 生命・経済・貨幣を貫く「旅」の原理

 そして、もうひとつの観点があることもここで指摘しておく必要がある。それは、この「旅」という運動が、経済活動の拡張とも密接に関わっているという点だ。近年、インターネットとそれを受容するデバイスの発達によって増加している、場所を選ぶことなく生活の糧をえる、デジタルノマドと呼ばれる働き方は、このコンテクストからも捉えることができる。ノマドとは遊牧民という意味を有するタームであるが、それは「旅」というタームと強く共振していることは、その界隈のデジタルコミュニティを見ているとわかることだろう。「旅」の快楽は実益にもつながっている。それは、貨幣経済のシュミラークルのなかの現象として現れることもあるし、個々人の快適さとして生まれることもある。ここでは、個々人の快適さというものの一部が貨幣経済における影響として立ち現れていることも見逃してはならないところだろう。「旅」の欲求はそのまま、資本主義社会における、新領域、ブルーオーシャンの発見にもつながって、その場を入手することもできる可能性があるという点で、スタートアップなどの界隈とも親和性が高い理由もよくわかる。

 つまりは、「旅」の欲求は、個人的なものでありながら社会的、そして、生物のしての種の拡張原理でもあり、資本主義の膨張の一部でもあるのだ。

6-3 「旅」の欲求をいかにデザインするか

 このような相互関連した機能の絡まりあった糸は、総合されると情緒的な「旅」への感情として立ち現れる。私たちはその感情がどのようにかたち作られているのか、読み解いていかなければならない。なぜならば、そうでなければ、その感情が導く結果を、私たちは選ぶことができないからだ。生物は遺伝子の乗り物だという側面があるのは事実だろう。だが、人類は、地球上の長い生命の歴史のなかで、異端な存在であり、その種が誕生してそんなにも長い年月がたっていないのにもかからず、すでに大量の同族を虐殺したり地球上の環境を大きく変化させたりしている。そのことは、人類はこの地球上に生きる生物が長く子々孫々反映していくことを前提とするならば、かなりイレギュラーな存在だということなのだ。そのような自己破壊的な衝動すら持っているこの人間という生命体の持つ欲望もまた「旅」だということができるだろう。越境や飛躍が人類をここまで異端な存在へと導いてきたのだ。

 つまり、これからの人類の課題のひとつは、「旅」の欲求をいかにしてコントロールするか、にあるといえるだろう。でなければ、生物の歴史としては比較的早く、私たち人類は滅びることになるかもしれない。私たちは「旅」についての認識をアップデートする必要がある。この世界におけて、「旅」が作り出すのは、創造だけではない。その欲求は同時に、破壊ともつながっている。しかし「旅」には、そのような死の欲望ともいえるもの以外にも、世界を豊潤なものとして浮かび上がらせる側面がある。それは「他者」との新たなる出会いという側面だ。つぎに、この「他者」との出会いとしての「旅」について考えてみたい。ここには「旅」の快楽と人類のサスティナブルな社会を同時にかなえる機能の備わっている。「旅」の欲求をデザインすること。それが「旅」を考える、ということでもある。

「『旅』とは何か」をめぐって 第5章 グローバル時代における「旅人」と「社会階層」

この記事の所要時間: 418

5-1 消費者が作り出す生産者の貨幣価値と内面性

 「旅人」はそれ自体、社会的な階層を形成している。たとえば、「流浪の民」の位置付けは、定住生活を基本とする近代社会にとって低い地位におかれているものだし、現代でも流浪の民の代表的な存在である「ロマ(ジプシー)」の社会的な位置付けも低いものだ。また、そのような流浪の民でなく、一時的な消費者としての「旅人」は、ある圏内においてお金を使う階層として位置付けられ扱われる。まず前章の続きとして、消費者としての「旅人」が社会に与えるインパクトと、それによって引き起こされる場の変化、社会階層の形成について考えてみよう。

 消費者としての「旅人」はその消費行動の結果として、ある「場」において新たなレイヤーを結果的に創出することになるのは、前章でも述べた通りだ。それは、一種の貨幣経済、もっと言えば資本主義社会のなかにその地域がビルトインされ、位置付けが行われることを意味しているが、それは「旅人」という消費者から、その地域の人びとが貨幣を受け取ることに特化したために、その地域の生活習慣や考え方というものを大きく変化させる結果を作り出している。

 その変化は、生活と生活を成立させるためのビジネスを切断することにもつながっている。なぜなら、それまでの生活の文化というものを活かしきることの難しい市場でもあるからだ。そこでは、質的な問題よりもその奇抜さや特異性のほうが市場価値として重要視される傾向が生まれる。そのため、だんだんと消費者側の論理と同じように地元の生産者も考えるようになってくるが、その変化は、消費と生産という役割の固定された関係、状態をも作り上げていく。つまりその個性を、その生活とは切り離されたところで市場価値化されるということなのだ。生産者における消費者の視線の内在化は、アイデンティティすらも貨幣の価値として交換してしまうものだが、それはいわば一方的に見られる側でもある。そして、見る見られるの関係の安定は、貨幣の移動の仕方によって、階層としての安定化へとなっていく。

5-2 定住者からの視線で価値付けされていく

 旅人のひとつの階層の観点としての「流浪の民」。定住をその基礎とする近代化以降の人間社会において、旅をすみかとする人びとは、あまり歓迎されたものではない。なぜなら、一般的には定住を基礎としたコードの上で地域社会が成り立っているため、そのコードに合わない存在としてノイズのように感じられるからだ。昔から、たとえばロマなどのような存在は、その社会のなかにおいて低い地位を与えられていたし、実際に経済的にも貧しい傾向もあることは否定することはできないだろう。

 つまりその意味での「旅人」は、被差別の問題とも親和性が高い存在でもあるのだ。そして、その親和性の高さが階層性を生成していく要素のひとつともなる。もともとその社会のなかで遊離した状態の「旅人」がその場で経済活動をしていくのなら、その社会の隙間にあるような仕事をしていくしかない。たとえば、その社会で嫌われる仕事を請け負ったりといった形で社会的な地位を獲得していくのだ。

 例えば、流浪の民としてのユダヤ人もなぜ、金融業界の存在に、金貸しをするようになったかというと、その仕事がその当時では卑しいものがするものだったことが理由として考えられている。またなかには、その貧困状態から生き抜くために、盗賊のような略奪行為に打ってでるものもいるだろう。しかし皮肉なことにそれによっても、その社会の一員にもなっていくのだ。つまり、集団、階層の形成には、経済活動のあり方が多く影響している、ということである。略奪行為ですらも経済活動というレイヤーの上で意味化され、社会のなかで階層化の依り代となっていく。

5-3 「旅人」の階層性、その2つの側面

 つまり「旅人」の階層には、階層を作り上げていくきっかけとなる「消費者」という側面と、社会から遊離した力なき「マイノリティ」という側面の2つが存在するこということだ。それらは、その場所における経済活動にビルトインされていることが共通している。つまりは、社会性と貨幣を稼ぐそのあり方には相関関係があるということなのである。

 では「経済活動」とはなんであるのか。そのことについて、ここでは深めていく必要があるだろう。旅人にさまざまな機能や役割を付与していく経済活動。ただそれが生活の糧となるだけでなく、それ自体が価値となって、人間を意味付けていくようなものとしての経済活動。

 ある欲求に従って始まった「旅」が、結果的にその場所に様々な意味を付与していくということ、そしてされること。それはまるで、「散種」のような不確定性を高めという側面だけでなく、最初からその意味のようなものが、その欲求の原動力としてビルトインされているのではないか。私たちは「旅に行きたい」と知らず知らずに思い込まされているのではないか。そのような問いが立ち現れてくる。「旅」への欲求というものは、そのように形作られているのだろうか。次回では、「旅の欲求を作り出すもの」とはなんなのかを考えてみたい。

「『旅』とはなにか」をめぐって 第4章「旅人」と「資本主義」

この記事の所要時間: 424

4-1 「旅人」のニーズを内面化していく地元

 現代社会において「旅人」というものは、消費者として捉えられている側面が強い。そしてその側面を支えている旅行産業は、かなり大きな規模を持っている。これも当然のことだ。なぜならば「旅」は、衣・食・住すべてにかかっているものだから。世界にはさまざまな「旅人」用のホテルや店、レストランなどがあり、それらはその地元に住む人びとの物価感覚とは別のレイヤーを作り上げている。ツーリスト価格というものも作り上げられているし、その地元にツーリスト向けのレイヤーが生まれたということも意味している。

 そこはかなり純粋なかたちでの「市場」が作り上げられているわけだ。売られているものは、旅人用にアレンジが加えられていたり、なんらかの付加価値がのせられている。それらはもともと地元の名物だったものを基本としながらアレンジが加えられているものだが、生活とは少し遊離した場所にあることも多くある。つまり、ツーリスト向けにつくられているのだ。そしてそれらは独特の進化をとげている。もともとはその場での生活文化に根付いたものでも、ツーリスト目線によって求められるものへのアレンジが求められてくるからだ。それは単純にツーリスト側からの視線が地元の人々に内在化されることも意味している。

4-2 貨幣経済が生み出すレイヤー

 そしてそのアレンジによって地元の人々が手にするのは「貨幣」だ。この貨幣が、地元の生活の糧となり、それによって生活に必要な商品を購入し暮らしていくことになる。これの意味しているところは、それによって広範囲にわたる貨幣経済のレイヤーに組み込まれていくことになる、ということだ。そして、その自分たちの商品を売って貨幣を得るということができない場合、生活すらままならない状態になっていく。つまりは貨幣への依存が始まるというわけだ。

 その貨幣経済によって、地元の生活も大きく変化することになる。貨幣を稼ぐことが仕事をすることにつながるため、生活文化に根付いた衣食住は、貨幣に変換することのできる価値としての場所を獲得するにいたる。つまりは、じっさいの生活とは遊離した存在へとなっていくのだ。そして実際の生活に使用するのは、手っ取り早く貨幣で購入することができるものに置き換わっていく。そのことによる弊害は、その地元の生活文化に根付いた衣食住がツーリスト用のものとなっていくために、その質的なものが変化していくということだ。日常生活で使用されるものでないため、耐久性などの面で劣化することが目立っていく。

 ただただ一時的なものとなっていくのだ。それは表面的なものだけが求められていくことと同じだ。長く生活のなかで質の良いものに触れ続けていればその劣化にすぐに気付くであろうが、ツーリストたちにはその違いはすぐに分かることは少ない。そういった意味で、貨幣価値と質がそれほど相関関係にないことも、旅行産業の現場で陥りやすいの現象ということができるかもしれない。その構造は、貨幣経済における必然だといえるが、そこにはツーリスト側からの視線によって規定されているレイヤーがあることを見落としてはならない。消費者と生活者の2分割が顕著にでる場所として観光地はその表象を強めていくのだ。

4-3 資本主義が作り出す階層社会

 そこで行なわれているのは、貨幣を稼ぐ場合と生活者であることの2分割だといえるだろう。それによって、そこに住む人びとはバランスを保っているのだ。しかし問題は、その貨幣を稼ぐモードにおいては、その効率の原理を少ない労力で多くの貨幣を稼ぐことに設定される、ということだ。そこに質の低下のようなものも入ってくるし、結果的にそれによって、伝統的な文化の蓄積を失ってしまうことにもないかねない。ただただシュミラークルとして消費されるだけの伝統文化。それは、資本主義社会を駆動する差異が価値を作り出すこととも連動している。つまり資本主義社会のなかで、それらの文化は記号として消費されていくのだ。

 このようなことが世界中で起きており、私たちはそれに巻き込まれずにいることは難しいことになっている。どこまでも貨幣経済が資本主義が差異をみつけて追ってくる世界、それが今の時代ということもできるだろう。もちろんそれは資本主義社会に限った変化ではないが、それを生活の場からドラスティックにしかもほとんど能動的にみえるほど変化させているのに、資本主義という存在は大きい。すべてを商品化して貨幣による生活が中心になると、それまで生活を支えていた衣食住の変化は形がい化していく。そして、商品化される側は、なかなか消費者としての位置を獲得することは難しい。

 つまり、商品を提供し続ける存在として、その地元が社会的に定義されてしまうことになるのだ。その関係性の構築も資本主義の運動のなかには含まれているといえるだろう。それは、生まれながれにしての格差をグローバルな社会のなかで固定化させることにもつながってくる。つまり資本主義には、そのように自らの起源や労働力を一方的に提供し続けるという階層を世界的に作りだしていくのだ。それは事実上の階級社会の生成でもある。次回は、グローバル時代における「階級社会」についてかんがえてみたい。

「『旅』とは何か?」を巡って 第三章 「旅人」と「政治」

この記事の所要時間: 427

3-1 「旅人」の「政治」における機能

 「旅人」という概念は、「政治」という概念からとても遠い存在のように考えられているかもしれない。例えば、旅行産業などによって経済の対象ではあるとはいえ、それが「政治」とどのように関係を結ぶかについては、あまり意識の遡上に登ることはないのではないだろうか。つまり、「旅人」とは消費者としての「経済」的な存在であり、「政治」的な存在ではないと考えられている傾向がある。

 しかし「旅人」は政治性を身にまとってた存在だ。それを可視化するために、ヴァルター・ベンヤミンの「フラヌール(遊歩者)」という概念を導入してみたい。ベンヤミンはこの「フラヌール」という概念を使いながら、彼の生きた当時の都市の変化や形成を眺めていた。「フラヌール」は、その都市の仕組みのなかに組み込まれた存在というよりは、そこから少し距離を置いて眺めることのできる存在として考えられている。そこにある生成・変化の構造のなかに没頭してしまうと、その構造を外部から眺める視点は難しくなっていくからだ。

 その構造をどこから眺めるかが、その構造の把握のあり方に関わっている。そして、この「フラヌール」的な視点は近代の視点ともかぶったところがあるのだ。なぜかというと近代は、合理的なシステムを作り出す運動のようなものであるが、それは個々人の視点を個々人の視点として終わらせるのではなく、その上に抽象度に高めることによって生成されるからだ。つまり、「フラヌール」的な視点というものは、近代的な視点と似ているところがある、ということなのである。

 そういった意味で、「フラヌール」はその構造に「政治」的なポジションとして回収されうるのである。

3-2 「旅人」から「政治」を奪うもの

 その「場」の構造の中に回収された「フラヌール」は、その構造を眺めるものとして役割を与えられている。その役割は「場」の政治にとって、為政者と近しい存在にもある。ただ権力を有していない視線としてである。しかしその場には、当然のことながら利権の構造があるわけで、そのなかに「旅人」を位置付けることは、なかなか難しいことだ。その利権構造の内側からすれば、「旅人」をその場を構成する要員として認めてしまうと、その利権の正当性を揺るがしてしまう可能性すら含んでいる。そういった存在は、多くの場合、体制側から「差別」の対象となるが、それを単なる消費者として見なすことで、その危険性を中和していくわけだが、「旅人」という存在は、基本的にその場の政治的な構造を変えてしまう可能性をはらんでいる視線を持っている。その場の政治的な構造を変えないことによって、その場の攻撃性を「旅人」は受けずに済んでいるのだ。

 けれどもその危険性は、逆にその共同体の利益に還元することもできるものでもある。距離を置いた「近代」的な視線によって、その「場」の評価をすることができるという点にある。つまり、その構造のなかにある存在にとっては死角のようになってしまっているポイントが、「旅人」には見える可能性があるのだ。もちろんそこには消費者という視線が強く入りがちなことも見落としてはならないが、そのポイントへの気づきのようなものを「旅人」はその構造の内部に対して与えることができるのだ。けれども、それには条件があるだろう。それは「旅人」がその場の構造に関して感情移入していない、ということだ。その感情を持ってしまうと、視点が限定してしまい、その場の住人たちと同じ視線に同調しようと無意識に考えてしまう。消費者としての立場と「場」への感情移入、それが「近代」的視点を奪ってしまう。

3-3 「旅人」のもつ暴力性

 この特定の構造物に対する愛着の問題は、近代的な視点の可能性をはらんでいるはずの「旅人」から、その特権的な視点から追いやってしまう。なぜなら、その感情が共同体への参加を意味しているからだ。つまり、政治とは感情のバランスのようなことを意味しているわけだ。その感情の落差のようなものが、その構造に機能をもたらしていたわけで、それが同調してしまうとその特性は失われてしまうのだ。つまり「旅人」は、その場に感情移入しすぎていないために、その機能を発揮することができる存在なのである。

 そのことはもちろん「旅人」のもつ暴力性ともつながっている。全く感情移入せず、その場に消費者として訪れた時、その暴力は最大限に発揮される、例えば、消費者の貨幣によって、産業構造が変わり、その消費者に依存したかたちでの場の構造が生まれてしまう。そして、その消費者に感情がない分、その場で産業に携わっている人びとは、訪れる人びとをただ「お金を落としてくれる存在」として眺めてしまうことになってくるのだ。これは、自らの共同体と外からくる「旅人」の間での差別意識にもつながってくるものだし、その産業構造の変化によってもとの共同体が解体されるに至ると、その視線は自分自身へも向かっていくことになる。これをもってして、「旅人」の持つ攻撃性というものは、その地域のメンタリティをも大きく変えてしまうに至るわけである。

 そこには確実にコントロールの正統性が表出している。ここに資本主義社会の暴力のようなものも表出しているのだ。次回では、「旅人」と「資本主義」について考えてみたいと思う。

「『旅』とは何か?」をめぐって(2) 人間社会における「旅」の機能

この記事の所要時間: 414

第2章 人間社会における「旅」の機能

2-1 「まれびと」と異なる世界をつなぐもの

 「まれびと」とは、時を定めて高いから来訪する存在である。霊的・神的なものの本質を定義する折口信夫の思想体系でも最重要のキー概念でもある。また日本だけでなく、外部からの来訪者の対して宿や食事を提供して歓待するという風習は、世界中で見られるものだ。その理由は、さまざまなレイヤー(層)があるだろうが、その根底には「別の世界から来たものは、神と関係を持っている」という意識が横たわっている。だがどうして、そのような意識が育ってきたのだろうか。

 これはもしかしたら、私たちが生活を営むことができるそのバックグラウンドは、基本的に一方的に与えられるものであることを、無意識に理解しているからではないだろうか。例えば、果実などの自然の恵みや狩りや農業、そして、パートナーとの出会いや縁に至るまで、人為を超えたところにある出来事だというを、私たちは無意識的に理解しているのではないだろうか。ただ一方的に訪れるものは、すべて「恵み」である。そして、それがもし、苦難のようなものであったとしても、神からの何らかのメッセージなのだと、考えるようになる。なぜならば、それは人の力ではどうしようもないことなのだから。もしかしたら、この「恵み」をもたらすものと「苦難」をもたらすものは、「神」と「悪魔」のそれぞれの表れだと感じるのかもしれないが、それがこちらにやってくることに関して、人間はそれを拒否することができない存在にとどまりつづけることしかできない。

 ただそれを受け入れること、それは「神」を受け入れることに似ている。その出来事にどのような意図が働いているからわからない。分からないが、自分たちの所属している世界の外部から来た存在は、自分たちの世界との関係のなかで、今、その異なる世界から現れる必然のようなものがあるのではないかと考えられるのだ。だから、その「到来」を私たちは無条件に歓待することになる。これまで一方的に「恵み」を受け取ってきた、そして「苦難」をも拒否できず与えられる存在として。そこには、自分たちには計り知ることのできない意志があることが前提となっている。

2-2 「歓待」と「旅人」の社会的機能について

 ではなぜ、このような「歓待」の文化・風習が残り続けているのかを考えてみよう。思想的なバックグラウンドがあるのは当然のことだが、なんらかの機能のようなものも担っていたはずだ。人間社会における「旅人」の機能とはなんだろうか。そのことをまず、「コミュニティ」という単位で考えてみよう。

 旅人はあるコミュニティ(生活共同体)のなかに過剰さを導入する。それは対応するためのコミュニケーション能力だったり、実際に、食べものや住居という資源ということになる。それは、そのコミュニティのなかの有限性の中から差し出された「歓待」である。もちろん、豊かさを実感することによるやりがいのようなものを引き出すことでもあるが、その過剰さを惜しみなく与えることで一体そこに何が起こっているのだろうか。そのことを考える上ではまず、「贈与」の効果のようなものを考える必要があるだろう。「最初の一撃」としての「贈与」は、それを受け取る人にとっては「返礼」の必要性を発生させるものだ。そのことは、コミュニティの意識の拡張ともつながっているし、コミュニティ自体の安全に寄与することと言えるだろう。

2-3 贈与の一撃がもたらす効果

 つまり、「まれびと」は世界のなかでそのコミュニティが閉じていない、実際には孤立してはいないという事実によって発生するものなのである。コミュニティの外にも世界がある。それはそのコミュニティの内側から伺うことはできない。けれども、その外部から突然、予期し得ない到来があるのだ。それはまさしく「神」のようなものとして。それは、もしからしたら自分たちに「幸福」をもたらすかもしれないし、「不幸」をもたらすかもしれない。それは「神」のみぞ知ることであるが、この「到来」にはなんらかの意味があると考えるのだ。そしてそれをいかに受容するのか。それが問われることになる。その「到来」に対して、もし間違った受け取り方をしてしまうと、それは「神≒外部」から天災を受けてしまうことになってしまう。

 その「外部」といかに親密な関係を築くのかということ。その作法として、「まれびと」や「旅人」の「歓待」というものを位置付けることができるし、それはまったく観念的なものではなくて、実利的な作法なのである。そのような作法を編みだしたコミュニティが今、私たちの住むこの世界のこの時空に存在し続けている。つまり、コミュニティにとって、その外部といかなる関係を築くのかというのは、まさしく死活問題にほかならないのだ。ある集団の文化というものは、政治から切り離されて生成・変化してきたものではない。次回からは、「政治」と「旅人」について、ベンヤミンの概念「遊歩者」(フラヌール)を使いながら考えてみたい。

(続く)

「『旅』とは何か?」をめぐって(1) 「旅」を形作るもの

この記事の所要時間: 348

第1章 「旅」を形作るもの

 意識的に「旅」を住処とするようになって、もう1年半以上の月日が流れた。そんなにも長くなく、また短くもない時間だが、「旅」が日常と化するには十分な時間である。しかしこの日常化した「旅」とは、どのような形態を持ち、どのような生活を形作っているのか。そのことを、ここではちょっと考えてみながら、「旅」と「旅以外」について綴ってみたいと思う。

1-1. 「旅」は「移動」への意志でつくられる

 私の現在の生活を「旅」として定義しているファクトのひとつは、定住する場所を持たず、旅人をメインの顧客とした世界各地にある宿泊所を転々と泊まり歩いている、ということだ。つまり「旅」とは、その居住スタイルが構成要素のひとつとなっている。例えば東京で、アパートやマンションを所有したり借りて生活している人を、一般的には「旅人」と定義することは少ないだろう。抽象的な意味でそう表現することは別として。

 つまり一時的な仮の宿で生活していることは、旅人にとって重要な要素なのだ。ある期間、定住を前提としない生活を送ること、それが旅人を旅人たらしめる要素といえる。けれども、仮の宿に住んでいればそれで旅人になるかというと、必ずしもそうではない。たとえば、ホームレスの人びとや震災などで仮設住宅に住んでいる人びとを「旅人」とはいわないだろう。

 厳密な意味では、その居住スタイルだけでは、「旅人」であることを定義することはできない、ということになる。そこには帰る場所があるのかないのかという問いも。「故郷」があるのかないのか。それも含めて「旅人」という概念を規定をしているのは、点と点を結ぶ「移動」への意志のようなものだ。

1-2. 「旅」は単なる消費行動にすぎない?

 それはつまり、このように言い表すことが可能だろう。あらかじめ「移動」するという自由意志を持って、ある場所を訪れる存在。ここではどこかへ「移動」したいと思い、それを実行すること。それが「旅人」というものなのだと。つまり、最初からその場所と深くコミットすることを前提とせず、ある場所を訪れる存在ということになる。

 定住を基本的な生活スタイルとしている現代において、「旅人」とはなんと不真面目な存在として目に映るのだろうか。たとえば、海外で日本人に会うと、「旅人」たちの立場は、現地で働く駐在員たちに比べてかなり低くみられることが多い。とくに長期旅行のバックパッカーとなると、それはほとんど無条件的な差別に近いほど、ヒエラルキーの下層に置かれているという実感をもっている人も多いのではないだろうか。

 そのような位置づけになっている理由は、ほとんどの旅人たちが、その土地における責任を負っていないことに由来している。もちろん、旅人は訪れた土地にたいして、仕事を創り出すきっかけになったり、じっさいにお金を落としていったりもするわけだが、働きもせず生産的な営みからは外れたものとして見なされがちだ。だが、「旅」は本当に単なる消費行動にしかすぎないのだろうか。

1-3.「旅」を通じて「旅以外」をみつめる

 たしかに「旅人」は無責任で不真面目な要素を含んでいる。だが「旅」自体が、人間社会のなかで価値のないものとされているわけではない。いまでも趣味の世界において、「旅行」は定番中の定番となっていることからもそのことはわかる。けれども、それがメインになると話は違ってくるのだ。つまり、「旅」というものは、人が生きていく上でメインとなるものではなく、サブとしての役割を担わされているといえるだろう。

 その暗黙の了解のもと、「旅人」への社会的な価値判断は決定されている。つまり「サブ」であることを「メイン」にしてしまっていることに対する嫌悪感のようなものが、そこには発生している。その感情は、実際に現代社会を回していくためのルールが身体に刻み込まれている結果として現れるものでもある。つまり「定住」を前提をした社会における、危険で排除の対象となりえるようなノイズのように感じられるのだ。

 しかし、人間社会は歴史的にこのノイズをうまく取り込んで機能させた実績も持っている。たとえば、「まれびと」という概念もそれを説明するときにひんぱんに使われるものだ。次回、この「まれびと」という概念をはじめに使いながら、現代における「『旅』とは何か」という問いを深めてみたい。その問いは、「旅」を通じて「旅以外」のものを見つめる視座へと深化していくだろう。

(続く)