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「ヤンゴン環状線」、約3時間のローカルな電車旅

この記事の所要時間: 130

 ミャンマーの首都・ヤンゴンには、電車の環状線がある。1周約3時間で、ヤンゴン中央駅から郊外をぐるりとまわって帰ってくる路線だ。地元の人びとにとっての日常の場であることはもちろん、同じ場所に戻ってくるので外国からの観光客からも気軽に乗れる人気の路線となっている。

 環状線の電車が停車するのは7番ホーム。チケットカウンターはホームにあり、1日乗車券の価格は1人200チャット。日本円にすると15円くらいと格安だ。

 電車の便はそれほど多くない。1時間に1本くらいか。私は2時15分発の電車に乗った。車両の数は少なく、ホームの進行方向よりに停車していた。

 電車の車両は日本製のものが使われていた。どうもJR東日本の中古車両を使っているようだ。ところどころに日本語の文字が目にはいる。車内の天井には「JR東日本」という文字のはいった扇風機が取り付けられている。これが意外にもパワフルでそれなりに涼しい風を作り出していてくれた。

 車内の様子はこんな感じ。頻繁にフルーツなどの物売りが歩き回っていてなかなか賑やかだ。

 ヤンゴンの都市部を離れるとのどかな田舎の風景が広がっている。

 多くの工事をみかけた。急ピッチで開発が進められていることがわかる。しかし、活気はあるが、まだまだ貧しさを感じさせる風景も多く見かけた。また、たくさんのゴミが道端に捨てられてる光景も。経済発展の功罪が同時に目の当たりにしたような気がする。

 出発して約3時間後、予定通りにヤンゴン中央駅に到着。すでに日が傾きかけている。

 到着した電車に早く乗ろうと、ホームを走る人びと。電車はすでにゆっくりと走り出していた。

猫派の街、バンコクの中華街「ヤワラート」と犬の話

この記事の所要時間: 413

はじめに

私が街のみるひとつの観点が、その街が猫派なのか犬派なのかという点。東南アジアでは比較的犬派の街が多く、そういった街では路地で大きな犬に威嚇されてしまうので、路地を散策するのが好きな人にとってはちょっと大変です。また、犬が路上をうろうろしている街では、猫はちょっと肩身の狭い思いをしているので、その街で猫たちがどのようにふるまっているかは、その街を知る重要なポイントでもあります。

そして、最近の私のバンコクでのお気に入りのエリア「ヤワラート」は猫派の街なのです。

1. その街は、犬派?それとも猫派?

街には犬か猫のどちらかが闊歩しているもの。私にとってその場所が住みやすいかどうかを判断する基準のひとつはそこでもあります。犬が大通りや路地裏などでウロウロして場所では、猫はのびのびと暮らしていません。多くの犬たちは縄張り意識が強くて、よそものが縄張りに入っていくと威嚇してきたり、たちが悪い場合には噛み付いてきたりもします。とくに夜間は危険です。インドとかだともはやバイオハザードの世界です。

これらの犬たちはおそらく、その地域の人間がセキュリティ強化のために飼っているものだと思われますが、それらは多くの場合、外国からの旅行者にあまりフレンドリーではありません。ローカルな地域であればあるほどそうで、むしろ異物を排除するためにそこで飼われているのです。どちらかというと、路地裏をぶらぶら散歩することが好きな私にとっては、狭い通りでそんな犬たちに出くわすのはちょっとした恐怖を感じさせます。それがチワワみたいな犬種ではなく、けっこう大きめだったりします。だいたい中型犬くらいとかが主流でなかなか迫力あり。

2. 異国の路地裏で犬に出会ったときの対処法

基本的には、そのような縄張り意識の強い犬に出会っても、めっちゃ気にしてない感じに自然に振舞っていれば、警戒されることはありません。なんか恐怖心を感じたりこちらが警戒していると、向こうも反応してきます。そんな相互作用のなかで、地域の異物として認定されてしまうのです。なので、そんなときにやりすごすコツは、それらの犬たちと自分が違うレイヤーにいることを意識すること。「あなたは犬、私は人、関係ないよね?」的な雰囲気を醸し出すことです。こちらが気にせずに、その地域の人も気にしなければ、犬たちは異物として認識しないことが多いです。

ただ、やっかいなのは犬が複数たわむれているとき。そのなかに一匹でも好戦的なキャラクターの犬がいると、なんか群れ全体で勝手に盛り上がってきたりもします。そんなときは、もうその場を離れたほうが良いでしょう。一匹が吠え出すと他の犬もなんか吠えなきゃいけないような義務感が発生するようです。そうなったらもう、その場をおさめるのは難しくなります。人も犬も集団になると変わってしまうことがあるのです。

3. 裏路地の犬とダンジョンRPG

昔、ダンジョンRPGの「ディープダンジョン」や「ウィザードリー」とかやっていて、これはダンジョンのなかでモンスターに出くわすゲームですが、そんなゲームのリアルすら、犬派の街の路地裏は感じさせるものがあります。ダンジョンRPGは他のRPGと比べて、選択するルートによって突然強い敵に出くわすことが多かったと思うのですが、そのころ、がんがん強い敵たちに当たって砕けていたので、ゲームの主人公たちに今更ながら申し訳なさを感じていたりもしています。

狭い路地裏で放し飼いになっている大きめの犬に威嚇されたときの怖さとか、体験してみないとわかりません。ダンジョンRPGの主人公たちは、こんなシチュエーションで闘わせられていたのだなと。無謀なゲーマーだった自分をちょっと反省したりもします。

4. バンコクの中華街・ヤワラートは猫に優しい猫派の街

ちなみに、バンコクの中華街「ヤワラート」のエリアは猫派です。そのため、タイの路地裏名物ともいえる、縄張り意識を持つ犬たちにほとんど出くわすことがありません。その意味でこの街は安全だといえるでしょう。私は犬以外、夜の街で危険な目にあったことはないので、その街が犬派なのか猫派なのかは、よくチェックしています。猫がのんびりと過ごしている街では、あまり犬がウロウロしていないので、ちょっと安心です。

宿などで飼われている犬は、旅行者になれているから大丈夫なんだけど。

まとめ

基本的に私は犬も猫も好きなのですが、よそものであるという旅人の立場として、地域を守る犬たちを警戒しなくてはいけない立場なので、好きな街としては猫派の街です。狂犬病とかのリスクもあるし。なので、猫が路地裏でのびのび暮らしている街は、犬を警戒するというストレスがあまりありません。

どのようにして街が猫派と犬派に分かれるのかわかりませんが、細かく街を散策したいタイプの旅人にとっては、猫派の街のほうがフレンドリーなのではないでしょうか。その点、バンコクの中華街「ヤワラート」は猫派の街なので安心です。

バンコクの中華街「ヤワラート」の昔と今の話

この記事の所要時間: 38

はじめに

バンコクの中華街「ヤワラート」。もう10年以上前の話になりますが、その頃、このエリアはバックパッカーの聖地・カオサンに物足りなくなった長期滞在者が暮らしている場所でもありました。物価が安く、ちょっとあやしい雰囲気が漂っていて、観光客ずれしていない。そんなところが魅力であったようです。

けれども現在、このエリアはその古い街並みはこのままに活かしながら、カフェやギャラリーなどがたくさんある、おしゃれタウンと変貌を遂げています。最近、私はこの「ヤワラート」エリアがお気に入りなので、その魅力をちょっとだけご紹介します。

1. オルタナティブなバックパッカーの聖地だった

バンコクのチャイナタウン・ヤワラートエリアといえば、以前はバックパッカーの聖地・カオサンに物足りなくなったバックパッカーたちがもうちょっとコアな場所を求めて生活の場にしていたエリアでもありました。その当時は、このエリアは今よりも物価も安く、また観光地としてすれていなかったので、それで住み心地がよくでここにとどまる人も多かったようです。カオサンみたいに深夜まで爆音が鳴り響くとかないし、比較的、年配の旅人が多かったような気がします。ていうか多かったです。

そのため、カオサンに宿をとっている人よりも、バックパッカーとしての玄人感のある人たちが多く、「まだカオサンで消耗してるの?」みたいな雰囲気も。場所的にはカオサンから歩いていけるくらい近いんですけど、なんだか、カオサンに対するオルタナティブというか、カウンター的な位置づけだった気がします、バックパッカーカルチャーのなかでの。

2. 清澄白河と横浜中華街、山谷あたりが合体した感じ

この「ヤワラート」周辺では以前、売れない作家やライターなどがここに宿をとって執筆活動をしていた人も多かったのだとか。けれども現在では、そんな哀愁漂うような雰囲気はどちらかというとなりを潜めていて、カフェやギャラリーがたくさんあるちょっとおしゃれ感すらある、健康的な意味でのアーティスティックなエリアに変容しています。

古い街並みのなかにポツポツとあるそれらの店は、隠れ家感もあって、バンコクの若者や外国からの観光客やアーティストが集まるエリアに。日本でいえばどの辺になるのでしょうか。清澄白河と横浜中華街、そこに山谷あたりが合体した感じ?そうイメージすると、それほど間違ってはいない気がします。

3. タイ中華やロケーションの良さも魅力的

このエリアはタイ料理と中華料理がフュージョンしたタイ中華料理が美味しい。そのため、グルメの観点からも魅力的な場所です。

また、現在では多くのホステルやゲストハウスもできて、路地裏に複数の店舗が乱立していたりも。主な客層は西洋からの観光客で、日本人の姿はあまり見ません。今でも中華街を根城にしている長期滞在の日本人っているのかな。

また、タイの北部や南部に向かう列車の駅やMRTの端っこの駅があるファランポーンもすぐそこなので、これから列車に乗る予定のある人にとっても、便利なロケーションにあるといえます。

まとめ

つまり、バンコクの中華街「ヤワラートエリア」の魅力とは、おしゃれなカフェやギャラリーがあること、古い街並み、タイ中華をはじめとするグルメ、北部に向かう列車の駅の近くというロケーションといった感じ。

また、ほかの地域と比べてあまり犬がぶらぶらしていないので、夜の路地裏とかもそれほど危険ではないことも個人的には重要なポイント。そのかわり、たくさんの猫たちがダラダラと暮らしています。そんなところも、「ヤワラート」を私が気に入っている理由のひとつです。

インド・バラナシ「久美子ハウス」のシャンティさんが亡くなられた。

この記事の所要時間: 216

「インドのなかのインド」とも呼ばれるバラナシには、伝説の日本人宿がある。それは「久美子ハウス(KUMIKO HOUSE)」だ。日本人の久美子さんとインド人のシャンティさんが経営していて、最近では、元祖の久美子ハウスの側に、息子さんが担当している宿もできている。

私がはじめて「久美子ハウス」を訪れたのは、2000年代の半ばあたりだっと思う。はじめてのインドで、北インドのゴールデンルートを旅しているなかで、立ち寄ったバラナシ。そこで宿泊した宿が「久美子ハウス」だったのだ。当時はスマホもWiFiもなかったので、その当時の写真はほとんど残っていないし、書いた文章も当時は日本から持ち込んだ原稿用紙に手書きとかたちで、しかもそれすらも今ではどこかに紛失してしまっている始末で、つまり、その当時の記憶は、私の頭のなかが主たるありかとなってしまっている。

バラナシは当時、あまり治安が良くないとの話もあり、外国人の殺害事件とかの話が普通にあったように記憶しているが、殺されてもガンジス川に流されていくとかで、なにかと物騒なことが日常的にささやかれていた。だから当時、「久美子ハウス」では、基本的に夜間の外出は禁止されていた(今ではどうかわからないが)。そんなふうに、久美子さんもシャンティさんも、久美子ハウスに泊まる日本人の観光客たちの身を案じてくれていたのだ。インドの危険なところとか、ぼられないようにモノの適正な値段を教えてくれたりとか、次々と宿泊しにくる旅人たちに、さまざまな配慮をかけてくれていたのだ。

久美子さんもシャンティさんも、なんだかとても不思議な人だった。このご夫婦は、日本の東京、八王子で出会っている。それは久美子さんが26歳の時のことだという。そしてその後、結婚してインドに渡航。移住して5年後にゲストハウス「久美子の家」をはじめたとのこと。以後、インドを旅するバックパッカーの間では伝説の宿として名をはせることになる。最初は久美子さんはインド人が大嫌いで、それで日本人と話したくてゲストハウスをはじめたそう。

そして、久美子さんの旦那さん・シャンティさんが、2017年1月15日に永眠されたとのこと。久美子さんもそうだが、シャンティさんも、あまり自分の内面的なことを多くは語らなかった。ときに優しく、ときに厳しく、旅行者たちを見守ってくれていたシャンティさん。宿泊者たちは、シャンティさんからたくさんのものを受け取っていた。それはこちらが気づくものもあったし、きっと気づいていないものたくさんある。私たちはただそれを受け取って、旅の一時期を過ごしていたのだ。シャンティさん、本当にありがとうございました。心から、ご冥福をお祈りします。

1年ぶりの帰国。

この記事の所要時間: 111

約一年ぶりに日本に帰国している。この一年間は移動に次ぐ移動で、いわゆる「観光」という行為に関して不感症みたいになってたというか、なんだか移動することが義務みたいな感じになっていたから、今回の帰国はとても良い刺激になった。

まず、荷物などを一度リセットしたかったということもあったし、日本という国を「観光客」の視線で眺めることができることも大きい。また、日本に帰る人びとがなんだか羨ましくみえた、ということもある。つまり、自分にとって、隣の町に移動するよりも日本に帰ることの方が刺激的なことになっていたのだ。

そして確認したことは、やはり私にとって、日本という国はまだ長居をする国ではないということ。

これから数年間は、自分が描いた目標をもとに生きていく予定でそこには日本での生活は基本的には入っていないのだが、それらのことをこなしきったあと、どのような生活になっていくのかはわからない。理想的だと考えているのは、1年のうち3、4ヶ月は日本で過ごしてあとは他の国でっていうスタイルなのだが、果たしてどこにたどり着くものか。

ゆっくりと日本と海外を往復する生活というものが日常になっていくのを感じる。ただ、帰る場所があるっていうのは本当にありがたいこと。少なくともまだ、私にとって日本は帰る場所であるのだ。

 
 

  

  

インドの港町プリーでの、ほんの少しの日々

この記事の所要時間: 24

インドでずっと来てみたかった場所のひとつ、プリー。コルカタから電車で約8時間ほど南に位置しているこの海に面した街に、来てみたかった理由のひとつは、伝説の日本人宿「サンタナ・ロッジ」があるからだ。ここは世界的にも有名な沈没宿で「ジャパニーズ・ゲットー」なんて異名もあるとかないとか。そして、ついに先日その「サンタナ・ロッジ」にたどり着いた。その存在を知ってから大体10年近くになるのではないだろうか。といっても、この日本人宿自体40年くらいの歴史を持つ場所なので、10年くらい前には完全に老舗の域に到達していたのだが。サンタナは今は、デリー、バラナシ、コルカタにも支店が出来ている。ネパールのポカラにもあったようだけど、最近、なくなってしまったらしい。日本人宿というのは、旅人からは賛否両論あるところなんだけれども、ここプリーのサンタナはお客の年齢層が比較的高めで落ち着いている印象がある。時期の問題かもしれないけれど。ただ、北インドのゴールデンルートを外れると、ちょっと旅人の雰囲気が違う気はする。

北インド・リシケシのアシュラムで朝5時起きの生活を続けていたからか、朝の寝起きがいい。もともと、午前中に仕事して朝はゆっくり、という生活のスタイルをとっていたから、朝は強いほうなんだけれども、最近、その傾向は強くなってきた気がする。もしかしたら、これが「老化」ということなのかもしれないが。それでも朝一に一日のノルマをこなすのはとても心地がいい。プリーについてからもそんな生活を繰り返しているのだが、このサンタナ・ロッジでは、朝と夜の2食、そして、一日2回のチャイが宿泊料(250ルピー、約500円)の中に入っているので、ほとんど外出する必要がない。しかも、望めば部屋まで食事を運んできてくれるというサービスの良さ。それに、もしその食事があまり美味しくなかったらきっと外に食べに行きたくなると思うのだが、これがやたらに美味い。日本人の味覚を熟知した多くの料理に全然飽きてくる気配がないのだ。生活必需品もゲストハウスの中で販売しているので、本当に外出する必要がないのだ。これは確かに「ジャパニーズ・ゲットー」。というと、どちらかというとネガティブな印象を持つ人が多いと思うのだが、これが意外なほどに心地がいい。

   
          

ガンジス川で沐浴すること、または、ライフログの蓄積とその持続について。

この記事の所要時間: 122

ガンジス川で沐浴すると、それまでの罪が洗い流せるという。これはいうなれば、自らの身に付いた「負」の情報を川の水に溶かしこんで、身体から川へとその情報を移しかえるということだ。そして、人の清濁のすべてを飲み込んで、川は海へと流れ込んでいく。このような風習が誕生していることからも分かるように、人はずっと以前から、過去の自らの経験の記憶に苦しめられてきた。その救いとしてインドでは、ガンジス川に罪を洗い流すという風習ができたのだろう。

これは一種のイニシエーションのようなものだが、それによりサステイナブルな社会体制が作り上げられてもいる。つまり、個人的な生きていくための知恵という側面だけでなく、集団的なものが作り出す秩序の補完としても機能しているのだ。もし、そのような苦悩の行きどころやはけ口がなければ、そこから綻びが生まれ、その秩序自体が内側から「死」へと向かっていくことになるだろう。

ある風習が編み出されるところには、個人を集団と接続するための紐帯のようなものが作られる。その紐帯の総体の多くは宗教として結実していたりするものだが、これを現代の日本社会に当てはめてみるとどうだろう。日本では、取り返しのつかないような失敗をした場合、自殺という方法を取って情報の消去を試みる傾向があるが、これもまた、死者はみな仏になって罪が洗い流せるという文化的連続性の上での発想に基づいているのかもしれない。

つまり、現在の日本においては、罪を洗い流すこと、情報を消去することと、死ぬことは近接していることになる。これが生き続けることの「苦悩」を形作る要素のひとつだろう。

広州と間貸しと豆乳と。

この記事の所要時間: 140

※ブログをひとつたたむので、こちらに転載。

もう今から9年くらいに前の話になる。

はじめに香港に渡った。今考えるとなんでそうしたのか不思議だが、いわゆるガイドブックや地図は持たずに、ぶらぶらと街を歩いていたのだが、さすがに何の手掛かりもないのは辛くて、お店で地図を買ったのを覚えている。香港では、魔窟とも言われる重慶大厦に一泊したが、すぐにそこから北上して広州を目指した。香港から深圳へ抜けて、広州へ。

なんか香港から出る時、色々持ち物とか検査されて何か早口で聞かれたのだが、中国語が伝わらないと分かるとちょっと嫌な顔をしてすんなり通してくれたのを覚えている。もちろん、めんどくさかったのだろう。

なんだかんだで広州の駅に辿り着いた。駅前は治安が悪いものだが、とある青年がいきなり絡んできてなんだが怒ってて僕の服を掴んだりされたけど、無言で睨み返したりしたら離してくれた。それで、あまり駅前をふらふらしないほうがいいなぁと思い、街中に入っていった。

香港とはまた別の地方都市の生活感の街をずいぶんと歩いて、その日の宿も探した。前情報もほとんど調べてなかったし、ガイドブックも持っていなかったので、適当に宿に当たる。一泊目は、その辺のおばちゃんに適当に紹介された小さなホテル。たぶん、おばちゃんにはキャッシュバックがあるのだろう。宿の人と相談もしていたし。一泊100元(約1500円)だった。結構きれいなところで、バックパッカーとしてはちょっと贅沢だった。それで、次の日はもっと安い宿を探した。

次の日に見つけた宿は宿というよりも、間貸しのようなところだった。いや、ようなではなく間貸しだった。シャワーもトイレもそこに住んでいた老夫婦と同じだったし、家の空いてる部屋を一泊50元(約750円)で貸していたのだ。

朝起きて早い時間、多くの人たちが仕事に向かう時間に道端で売っていた1元(約15円)の出来たて新鮮な豆乳の美味しさをよく覚えている。

始まりの回想、ジャカルタ。

この記事の所要時間: 150

※ブログをひとつたたむので、こちらに転載。

始まりはインドネシアのジャカルタに塾講師で行ったことだった。

世界各国には日本人の駐在員らの子どもたちのための学校があるが、公教育だけでは日本に帰った時の受験競争に対処しきれないため、民間企業の塾が存在している。その塾に臨時講師の空きができたらしく、その空きを埋めるために僕はジャカルタに向かったのだ。

仕事のある日は、朝から夜まで会社のある「Pondok Indah」で働いて、夜は「BLOK M」という外国人が主な客の飲屋街で飲んで、門の内側のセキュリティの行き届いた住宅街のアパートに帰って寝る、という生活の繰り返しだった。

夜は日本でいうキャバクラのようなところに連れられて行くことが多かった。向こうではそれを「カラオケ」と言っていたが、現地の駐在員がインドネシア語を学ぶのはこの「カラオケ」でのコミュニケーションによるところが大きい。

生活の中の多くの時間は現地社会と交わることはなく、ほとんど外国人エリアや裕福層ばかりのエリアなどをdoor to doorで移動する日々。塾講師なんてそんなに良い収入でもないのだが、それでも現地では社会の上流の方に組み込まれる。

ジャカルタにいたのはそんなに長期間ではなかったのだが、その中で日本への留学経験のあるインドネシア人を紹介してもらえる機会があり、その人に同行してもらって普段足を運ばないエリアを案内をしてもらったことがあった。それまで移動といえば運転手付きの車だったのが、その時にはじめて電車やバスに乗って一般的なインドネシア人の生活圏を案内してもらったのだ。

そこに広がっていた世界はとても豊潤なものに見えた。そして、自分がとても狭い空間の中で暮らしていることが、とても勿体無いことのように思えたのだ。

その時のことが、僕の海外旅行における原体験といってもいいだろう。その時に自分の中に新しい空っぽの引出しが出来たような気がしたのだ。その引出しの中に様々な経験や知識を入れていきたい。そしてその後、貪るように地を這うように各地を旅するようになる。まるで自分の中の空白を満たすように。

「室礼」のカフェにて。京都「パラソフィア」を巡る前にボンヤリ考えていること。

この記事の所要時間: 154

  

※思いつくまま書いてるので、乱筆で失礼します。

東京から実家のある山口に帰省することもあり、その真ん中に位置する京都にも足を運んだ。もちろん、目的は2015年5月10日まで開催される「パラソフィア」をみてまわること。このエントリーでは、鑑賞前に今、考えていることなどを残しておきたいと思って書いている。

まず、昨日までは神戸にいたのだが、最寄り三田駅から尼崎駅まで行き、そして、そこから京都へ向かう電車に乗って、京都駅へ。そこから地下鉄で四条まで行き、今、展示のひとつである建物に併設しているカフェでこれを書いている。予約していく宿が15時からチェックインなのでそれまでの時間に書き上げたい。

電車の中で、もちろん、このアートフェスについてSNSなどで評判などをチェックしたわけだが、ひとつの気になる記事とひとつの気になるまとめを発見した。前者については、肯定的な記事で後者は言ってみれば、問題提起のようなものだ。トゥギャッターでまとめられていたのだが、そのまとめ主が知人でもあったりして、今回のこの展示群を観る上でのひとつの観点を提示してくれた。

具体的にいえば、このアートフェスが「知性主義的なアートフォビア」が具現化したものなのではないか、というものだ。それに対して、池田剛介さんが「アート業界の反知性主義」とをさらっと対峙していて興味深い。自分の比較的身近な政治とかいう社会関係に引きつけて考えるときに、非常にわかりやすい構図になっている。

こういう構図はアート業界に限らないものなのだけれども、ここがポイントになりがちなのは、アートというものの社会的機能というものがその「リゾーム性」にあると考えられているところがあるからかもしれない。それは、たとえば「オタク文化」もそうだけれども、メインストリームではないところで育ったものが新しい価値や文化を作るという思想のようなものがあって、それをアートが担ってきたという自負のようなものがあるからかもしれない。そしてそのことはこのフェスに冠されている「パラ」という言葉の意味ともシンクロしているわけだ。

つまり何というか、「知性」の在処の争奪戦というかそういうものが、ここ京都で「はんなり」とおこなれているのかもしれないな。

日本でインドビザを取得しようとしたけど、結局やめた時の話。

この記事の所要時間: 344

5月の中旬からベトナムでしばらく暮らす予定なんだけれども、その後にインドにも行こうと考えていて、インドビザ、日本だと6ヶ月のマルチプルがとりやすいのでこっちで取っておこうと思い、一度チャレンジしてみた。

インドビザといえば、多くの旅行者にとって鬼門というか頭を悩ますことが多いのだけれども、以前、九段下のインド大使館(現在は違う場所にあるのかな)で取得した時には、かなりすんなりといった記憶があるので、かなり気楽な感じで行ってみたのでした。今は大使館ではビザを申請しなくなっていて、ビザセンターというところに赴くことになっていて、ちょっと前までは茗荷谷にあったらしいのですが、今年の4月から三田の方に移動したらしい。ろくに告知もされていない状態だったので、多くの旅行予定者たちは茗荷谷の方に足を運び、早々とインドの洗礼を受けたようである。私に関しては、この第一関門にはつまづくことなくクリアすることができた。

最近、インドビザはまずインターネットで申請書を作成し、それをプリントアウトして持っていくというのが基本的なスタイルとなっている。ネットで申請するのになぜ紙に印刷するのかはちょっと謎だけれども(手書きが読みにくくて嫌なのかな)。そして、窓口に行って、パスポートと共にその申請書を手渡した。そして、10分くらい待ったかな。それくらいで窓口の人に呼ばれたわけです。

「こことここが記述が問題がある」という感じで指摘が入った。ひとつはプリントの状態が悪かったようで、確かにかすれてはいたので良いとして、もうひとつの方は、選択肢の中からひとつ選ぶという形だから記述に問題があるというのはおかしいな、と思った。具体的には職業欄のところだったのだが。でもここでごねてもめんどくさい人と思われて、こちらはビザを取得しにいっている側で相手はそれを受け付ける側なので、ここはおとなしくした方がいいなと思い、申請書の書き直しをすることにした。これネットでの制作だから、紙を修正するというかたちではなく、すべて最初からやり直し。しかも、この申請書、私が知っているどこの国の申請書よりも項目が多いのです。しかしまぁ、そこまでは許せるというか、これからはもうちょっと合理化していくのかなとな、まぁ、色々と物騒だからなとか思えるのですが、問題はここから起こったのです。

ビザセンターにパソコンとプリンターがあるからそれを使えと促された。そして、その使用料がなんと二千数百円かかる、と。完全に足下をみてるなと。あとからネットで調べていると、800円とか1000円とか記述があって、多くの人はそれを払って新しい申請書を制作しているようだ。しかも、そのパソコンとプリンタのところにいたインド人は日本語が全くわからないらしく、ていうか英語で「no thank you.」って言ってるのに無性にわからない振りしてパソコンのパスワードを打ち込もうとうする。私の横には先に申請書の再提出を求められた人がそのパソコンを使用していて、私と二人で「これ、おかしいよね」と話していた。

今回、インドの洗礼のインパクトをこのような形で受けることになったわけだ。このビザセンター、インド大使館が民間に委託している会社で、三田に移動する時に会社も変わったらしい。ネットで調べても、この会社の詳しい情報はよくわからない。ていうか、これ、申請書に難癖つけてリジェクトしつづければ結構儲かるシステムができているような気がします。私はここのパソコンとプリンターを使用せずに帰ってしまいました。

これはやっぱりおかしいと思って、インド大使館にこのことを連絡。けれども、完全にその会社に委託しているので、こちらは知らないという。ならば、こういう連絡があったことを記録しておいていただけませんか?と伝えたら、「それはできない」の一点張り。なんだか高圧的な感じですらありました。一応、外務省のアジア担当の人にも連絡したら、「上のものに伝えておきます」と言っていただけたので、私ができるのはこれくらいかなと。しかし、本当にひどい。これ、誰もなにも言わないからこんなことになるんじゃないの?

ということで、私は別の国でインドビザを申請することにしました。まぁ、インドビザはどこでも旅人を悩ますものではあるのだけれども、この日本でこういう扱いを、しかも民間の会社から受けたことが正直そうとうにショックだったので、ここではもう取らないことにしたのです。なかなか辛い経験でした。もっとタフにならなければ。

東京での仕事、本日最終日。これから本格的な出発の準備をはじめます。

この記事の所要時間: 134

本日、東京での仕事はこれで終了する。あまり実感もないのだが、これから本格的に出発の準備を始めて、5月上旬には関西と実家のある本州の西の果てに向かいます。

そこから5月12日に福岡国際空港からタイのバンコクへと飛び、その3日後にベトナムのホーチミンへ。そこでしばらく(2ヶ月くらい)暮らす予定。

ここ最近は、ちょっと季節はずれの多くのお別れに立ち会い、それを機会に今まではあまり話さなかった人とも話ができたりもした。それは、大きく生活を変えることがなければ、できなかったことでもあるだろうから、それが人と人との関係を促進したということもいえるかもしれない。

しかし、特に国外で生活をすることを意識しだしたことで、自分の情報網というかそういった環境が相当の部分でインターネットに頼っていることがわかってきた。特に最近は、会う人の数が年々減ってきている気がする。

それは人間関係がある程度洗練されてきたということでもあるのだけど、そうなるとやはりちょっと縮小再生産されるところも増えてくる。それにやはり視点が増えなくなってくるため、自分自身で知らないうちに凝り固まってしまったところができてしまったり。

そういうのの予防線というか単なる楽しみでしかないのだけれども、近所のバーとか居酒屋の常連になったり、何らかの趣味とか自分の関係のある業界のパーティとかに参加してたのだけれども、やはり会うべくして会っているというか、基本的に近しい感じの人々なのですよね、ある程度共通言語をもっている、というか。それはそれでストレスのない生活ではあるのだけれども、別にストレスの少ない生活を送ることが人生の目的ではないので。未だに中二病とかいうか超越系というか、そういう属性とつきあい続けているのですが、それはたぶん、自分の変えようにも変わらないところなのだろうと最近諦念に至った感もある。

近況と新しい旅立ち。桜の花が散る頃に。

この記事の所要時間: 27

えーと、色々と展開が早いことになりまして、5月の中旬あたりからしばらく日本を離れることになりそうです。まずはベトナムのホーチミンにしばらく住むことに。ライターとしての仕事も若干いただいているのと、あと、一応、仕事をみつけての移動となりました。とりあえず、幾つかのやっておきたいことをこなすため、ベトナムを皮切りにこの星を一周してくる予定です。もしかしたら、なんらかのトラブルとかに巻き込まれるなどして、それは叶わず日本に帰ってくるかもしれないですが。

しかし、特に中東あたりとか、なかなか旅行がしづらい感じの情勢が続きますね。シリアとかもうしばらくは行くことができないだろうし、イエメンも大変なことになっているため、ソコトラ島などにも足を運ぶことが難しくなりました。それはそれで、ツーリストビザで旅歩いていく身としてはあまり文句は言えないのですが、なんだか物騒なことがこれから世界から減少する気配は残念ながら感じることは難しいようにも思われるのです。

一応、仕事しながらあまりお金を使わない感じで生活をしていくため、基本的にはネット環境の良好な場所を選んで旅することにはなりそうです。しかし、まだ色々と身辺の整理ができてなくて、仕事や片付けやらビザやらなんやらでいつの間にか時間が過ぎていく日々を過ごしているのですが、そんな人生の運びとなりました。もしかしたら、数年単位で日本には帰ってこないかもしれなし、反対に数ヶ月で帰ってくるかもしれない。それはわかんないんだけど、生活のスタイルとしての旅というものはやっぱり試してみたかったので、これを良い機会に国外だから可能になるライフスタイルみたいなものを追求してみたい。本当にどうなるのかわからないけど。

今一番の心配ごとは書き仕事が途切れてしまうことかもしれません。自分のブログである程度の収入とかになればいいのだけれども、そんなパーソナリティが売れるような才能もないし。ただやはりライター修行としての位置付けも今回の旅はあるのでそこも精進していきたい。ただ今、ゲストハウスの手伝いをすることは決まっていて、それとあと、輸入業とかリスクを最大限に減らす感じでやってみたいとは考えていたり。なかなか上手くいかせるのは難しいかもしれないけれども、学ぶことが本当にたくさんあって、基本的には好奇心が生きる原動力みたいなところもあるのでその点ではとてもウキウキしているところでもあります。とりあえず、そんな感じの報告でした。誰が読んでくれているのか、わからないけれども。

逗子の山上にある一軒屋カフェ「シエスタ」に行ってきました!

この記事の所要時間: 153

先日、とある飲み会でお会いした方が、逗子にある山の上にある一軒屋カフェを営んでいると聞いたので、早速、行ってきました。特にあまり行く機会もないので、良い機会に恵まれたということで。それで、逗子についてウェブで色々調べていたら、やはり魚が美味しくて特に有名な店が数軒ありまして。そのどこかで昼ごはんを食べて、その後、カフェにお邪魔するという予定を立ててみました。

昼ごはんの場所に選んだ「ゆうき食堂」さん。後で知ったことなのですが、ここは量の多さが有名なところだそうで。僕は食べながら「これくらいの量がこの地域のデフォルトなのかな」とか思ってましたよ。量は多いですが、魚の味は間違いないです。まったく臭みがなく、みずみずしい。あと、2、3軒行ってみたいお店があるので、また次回、トライしてみたいと思います。

逗子、めっちゃリゾート地でしたよ。けど、もともとは漁師の町だったらしく、地元の人の住んでいるエリアと結構明確に分かれている印象。リゾート地のエリアには椰子の木がバンバン立っています。画像では、めっちゃ南国のように見えますが、結構気温は低いです。建物も南国風のものが多く、画像だけみせたらインドネシアあたりのリゾート地といっても違和感がないほど。

こちらが今回お邪魔したカフェ「シエスタ」さんの玄関。店構えは普通の民家ですね。オーナーの方は、今後、外壁を黄色とかに塗って遠くからでもわかりやすくしてみたい、とのこと。

店の中は、細部までとても神経の行き届いた作りになってました。めっちゃ、居心地が良い!ここで日が暮れるまで長居してしまいました。

そして、日が暮れていく。この景色はなんとも贅沢。太陽の右にみえるのは富士山です。この景色は1日として同じ時はない。それは本当はすべてについて言えることなのですが、そのことを僕たちはいつの間にか忘れてしまいます。なんだかそのことを思い出すきっかけになった気がする。

以下は、夕暮れ時のタイムラプス映像。途中で記憶媒体の容量が足りなくなってしまったらしく、日が落ちるまでは撮影できてませんでした。映像の撮り方も練習しないと。



新年を2度祝う!横浜中華街でのお正月。

この記事の所要時間: 057

中国では、旧暦の正月を「春節」といって盛大にお祝いします。また、横浜中華街では、西暦の正月もそれなりにお祝いをする。だから、1年に2度、新年を祝うことになるのです。これは新感覚!

「元日」の19日には、爆竹やドラの音が鳴り響くなか、色鮮やかな獅子舞が練り歩きます。そして、商売繁盛を願って、お店の中にまで入っていく。その周囲には多くの人だかりができています。平日でありながらその人数は、観光地ならではの人通りを見せる土日祝と同じくらいかそれ以上。

以下の動画は、お店から獅子舞が出てくるところを捉えてみました。咄嗟のiPhoneでの撮影ということもあり、ちょっと画質が微妙ですが。。スマホなら耐えられる、はず!

今年の開催期間は、2月19日(木) から3月5日(木)まで。各種イベントについては、以下のサイトで詳細をみることができます。

「2015春節」(
https://www.chinatown.or.jp/event/celebration/201411_01/ )

最終日の「元宵節燈籠祭」も盛り上りそう!

代々木上原、散策日記2。

この記事の所要時間: 12

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やっぱりバータコ(煙草)があまり好きになれない。

今日行ったカフェは全面喫煙可の店で、偶然、僕の隣に座った人が吸い出した。そして、店には数人のお客さんがいたのだけれど、隣の人だけが煙をふかしはじめたのだ。

まあ、健康体であれば、服に匂いが付くなーとか、副流煙を吸うなーってくらいのことしか思わないのだが、今日はおそらく風邪からきていると思われる頭痛があって、非常に嫌悪感を抱いてしまった。

だって、実際に煙草の煙を吸うと頭痛がひどくなるんだもん。これは痛みという観点からで 言えば、知らない人からいきなり鈍器で頭を殴られたようなものだ。実際に痛みが付加されるのだから。そら嫌だろう。

最近は、そんな感じで煙草というものが好きではないのだが、もともとは煙草を吸っていた時期もあったのだ、この僕も。それが辞められたのは、インドでビリィという巻きタバコを吸ったことが大きく影響している。

そのビリィを煙草と同じ感覚で吸ってしまって、そのあまりの不味さによって煙草自体吸わなくなってしまったのだ。言ってみれば、ショック療法みたいなものか。ビリィはビリィとして、嗜まなくてはならなかったのだ。

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代々木上原、散策日記1。

この記事の所要時間: 059

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最近は週に2、3日、代々木上原付近に出掛けている。以前は世田谷区の経堂に住んでいたので小田急で、電車では それはそれは数え切れないくらい通り過ぎたわけだが、実際に駅に降り立ってその周辺を散策することなんてなかった。

けれども、よく通うようになったこともあり、この付近をちょっと遅めのランチタイムにブラブラすることが小さな楽しみのひとつになりつつある。基本的にランチの相場は高め。大体1000〜1200円くらいの感じ。でも探せば、結構安い店もある。800円くらいの洋食屋とか。

今日は民家を改装した一軒家カフェに足を運んだ。美味しいパンが売りのカフェだ。店内には数席のテーブルしかなくて、とてもこじんまりしている。言ってみれば、ひとつの部屋にテーブルが幾つか並べてあるような感じだから、隣の席の人々の会話の内容が聴きたくなくても聴こえてしまう。

今日聴いた話はちょっと悲しい恋バナだった。内容的にアドバイスが可能な感じだったがプライベートの内容なので、もちろんそれはしなかった。

何だが、まだまだ世の中マッチングが上手くいっておらなんだなぁ。みんな、頑張れ。俺も頑張るけども。

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久しぶりに「オルタナティブ・ツーリズム」という言葉を聴いた。

この記事の所要時間: 18

「オルタナティブ・ツーリズム」とは、観光分野の研究者の間で1980年代後半から用いられるようになった概念だ。そこには、「マス・ツーリズム」から生じたさまざまな弊害を克服し、新しい観光のあり方を追い求めていこうという意志が込められていたという。

けれども、この概念は「マス・ツーリズム」に替わるものという説明はあるが、その中身を示していないのではないかという批判を受けることになる。そのため、その代わりに「サスティナブル・ツーリズム」(持続可能な観光)という概念が使われるようになってきているのだ。

現在、何か状況を変えようとする時、2つの方向性が主要になってきているように思われる。ひとつは、改良主義的な方法。もうひとつは、新しいスタンダードを作る、という方法。この2つの方法に共通するのは、現在の「メイン・カルチャー」と直接的には衝突しないところだ。

それが良いことなのかどうか分からないが、少なくとも、不必要な摩擦を起こしたり、大きな損害を出すようなことは回避できる方法であることは確かなことなのだろう。けれども、ある局面においては、強く衝突しないと、何らかの目的を達成できないのではないか、という思いもある。

つまり、皆、どこか聞き分けが良すぎるところが、ある種の限界みたいになっているのではないか、ということだ。

自分が思わず入ってしまいそうになる場所。

この記事の所要時間: 043

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街をフラフラ歩いていると、自分がどのような傾向のある場所に惹かれるのかがわかる。

例えば、このエントリのトップ画像は昨日、渋谷で映画を観た後に夕食を食べた居酒屋の看板なのだが、基本的にドラえもんのロゴのパクリっぽい感じが目を引いて。しかも手書きやん。

もともと、別のモツ鍋が有名な店に食べに行こうと思っていたのだけれども、この看板をみつけて一気に気になって、まったく知らなかったこっちの店へ。

料理も安くてそれなりに美味しかったし、すごくラフな感じでもなくちゃんとしてて、そこが驚いた。もっとゆるい感じなのかなーと。

店長っぽい人はちょっと変わった人の放つオーラっぽいものを放っていたけれども、看板と店長の他は特に突飛なことは一つもなかった。それで少し拍子抜けするくらいだったんだけれども、店は結構繁盛してた。

オーストラリアと日系人真珠貝ダイバー。

この記事の所要時間: 26

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先日、オーストラリアに渡った日系人の歴史に関するトークイベントに行ってきました。知らなかったことが盛りだくさん。和歌山県にある本州最南端の町、串本町から1870年代明治初期頃に、真珠貝ダイバーとして、日本からオーストラリアに移住した人々のお話。

最初、真珠貝ダイバーと聞いて、真珠を採ることを主要な目的として海に潜る人のことかと思っていたのですが、真珠貝を採る主要な目的は、真珠貝の殻の方だったそうで。その貝殻をくり抜いて、ボタンを作っていたのです。あの衣類などに使用するボタンですね。

当時、ボタンというものは高級品だったらしく、それを西欧諸国の富裕層に売っていた、ということでした。もちろん、真珠自体も見つけたら、それも採って売っていたようなのですが、それはボーナスみたいな扱いだったらしく。今は人工的に、貝の中にコアを入れて真珠を作っていますが、元々は、どの貝にも入っているものではないですからね。

トークの内容は、やはり、世界大戦中の出来事にも言及されました。当時、イギリスの強い影響下にあったオーストラリアは、国内に滞在していた大戦における敵国の人々、日本、ドイツ、イタリアの人々を、捕虜として特定の場所に住まわせたのです。

そんな中で日本の人々は、大きな脱走劇を演じることになります。1944年8月5日、オーストラリアのカウラで起こった日本兵捕虜脱走事件、通称「カウラ・ブレイクアウト」です。捕虜収容所としては、史上最多の人数(日本人収容者数1,104名の内、545名以上)が脱走を試み、その死者数235名(オーストラリア人4名、日本人231名)、日本人負傷者数108名。

このような事件があると、どんな劣悪な環境だったのだろうと思いますが、生活の環境自体はかなり充実したものだったようです。そこでの生活者と管理する側のオーストラリアの人も、その多くは友好的だったそうで、今でも、その頃の同窓で集まる会が設けられているそうです。

大脱走は、やはり、兵士としてのプライドのようなものの成せることだったのかもしれません。カウラにはその時に亡くなられた人たちの墓があるのですが、その中には、名前すらも分からない墓もあるそうです。その理由は一説には、捕虜になるということがとても恥ずかしいことと思われていたので、名前を告げることができなかったからだ、と言われています。

真珠貝ダイバーとして海を渡った串本町の人々の多くは、そのままオーストラリアの地に根付き、今も暮らしているそうです。