カルチャー」カテゴリーアーカイブ

分業の進んだ芸術、その統合先としての建築「バウハウス」

この記事の所要時間: 127

東京駅内にある「東京ステーションギャラリー」がジャンル横断的で面白い、と某所で聞いたので行ってみた。

現在の展示は、「バウハウス(BAUHAUS)」の開校100周年の企画。「バウハウス」は、金属、陶器、織物、家具、印刷・広告、舞台など、様々な造形・メディアの統合先として建築を志向する芸術学校。分業が発達した芸術たちの統合先として建築を捉えることで、芸術活動に全体性を付与している。

「東京ステーションギャラリー」は、その名前の示すとおり東京駅の構内にあるギャラリー。東京駅の丸ノ内北口にあります。現在はコロナの影響なのか、事前のチケット購入が必要。つまり、ギャラリーの窓口では購入できません。ローソンに置いてあるロッピーで購入します。

最寄りのローソンはKITTEという商業施設の地下1階にあります。その時の混み方によるとは思いますが、12時半くらいに13時からのチケットが購入できました。

ギャラリー内に入ると、マスク着用、手指のアルコール消毒が義務付けられています。スタッフはフェイスガード着用。コロナにすごく意識高い感じです。

展示出口には「バウハウス」でデザインされた椅子が二脚置いてありました。展示を鑑賞している際、椅子などの展示作品を実際に使ってみたいと思っていたので嬉しかった。座ってみましたがとても座りごこちがいい。この座りごこちのよさから「バウハウス」が目指しているものが透けてみえるような気がした。

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開校100年 きたれ、バウハウス – 造形教育の基礎 –

日時:2020年7月17日(金) – 9月6日(日)
場所:東京ステーションギャラリー

サンティアゴ・アティトランの土着信仰「サンシモン」に会いに行く。

この記事の所要時間: 19

サンティアゴ・アティトランで、観光名物のひとつになっているのが、土着信仰の「サンシモン教(マシモン)」。

その神さまが祀られている場所は、なぜか毎年、変わっていくようです。去年は結構離れた場所にあったらしいのですが、今年は町から徒歩で行ける距離にありました。

本当に普通の民家のなかにあるので、路地裏をガンガン進んでいくことになります。近所の人たちに場所を聞かないと、たぶんたどり着くことはできません。

そして感動のご対面。入場料は2ケツァール。写真撮影は10ケツァール。写真は撮りすぎると追加料金をとられるみたい。

この神さまはお酒やたばこ、そして女性が好きで、手足がないのは女性に手をださないようにするためなのだとか。この神さまの像もモデルは、メスティソ(白人とインディオの混血)の男性なのだそう。

シャーマン的なおじさんが儀式的な何かを行っています。周囲の人びとでは、お酒を飲んだり葉巻を吸ったり。

そのため、酒の匂いと煙がこの部屋には立ち込めています。

そして神さまにもお酒やタバコをあげています。

グアテマラはスペインの植民地だったこともあり、キリスト教の信仰が大半。ですが、マヤの先住民族たちの土着の信仰が、それと混じり合って今でも息づいているのです。

インドより安くレッスンを受けまくれる、驚くべきヨガ教室の存在(グアテマラ・シェラ)。

この記事の所要時間: 046

グアテマラのシェラでは、格安でヨガのレッスンを受けることができます。

1回20ケツァール、1週間50ケツァール、1ヶ月100ケツァール。日本円で約1500円程度で、1ヶ月間ヨガのレッスンを受けまくれるのです。インドよりも安い!

レッスンのスケジュールは以下のようなもの。

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・月曜から金曜
モーニングヨガ 6:50-7:50
ハタヨガ 5:15-6:45
ナイトヨガ 7:15-8:30

・土曜と日曜
5:15-6:30

・日曜から金曜
アシュタンガヨガ 10:45-12:15

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シェラは標高2500mのところにあるからか、なんだかすぐに呼吸があがります。ここのレッスンは体力的にもちょっときつめのように感じる。私の体力が下がっているだけかもしれんけど。

場所はここらへん。

現代における「死なない」ことのリアリティとその「地獄」について。

この記事の所要時間: 318

「死なないこと」のリアリティの増大

芸術家の荒川修作が発した有名な言葉に、「人間は死なない」というものがある。

何をもってして人間の「死」とするのか、その定義はその地域や時代、分野などによって様々であるが、現在、「情報」という分野において、「死なないこと」のリアリティは増大してきてるようにみえる。

その「死なないこと」のリアリティの増大は、もちろん医療技術の発展によるところもあるが、情報技術の発展によるところが大きい。例えば、巨大なライフログの蓄積によるデータベースの存在とその解析技術の向上。近年盛んに議論されているAIもこれに当たるだろう。

それらの技術の向上によって、いつか故人のパーソナリティを「再生」することもできるようになるかもしれない。そうでなくても、その情報の海の中で個人の「生」は継続してくだろう。けれども、そのような世界は、「死にたい」と思っている人とっては、一種の「地獄」のように思えるものでもあるのではないだろうか。

「死なないこと」によって生まれる地獄

一人の人間の「生」の情報は、生身の脳だけでなく外部に、個人に紐付けされた形で半永久的に残り続ける。もちろん、今までも人間の脳以外に情報を蓄積する方法はあったわけだし、それを人類は活用してきているわけだが、それがもっと極端なかたちでシステム化していく可能性があるのだ。たとえば、Googleの「忘れられる権利」なども、そのような変化の中での倫理的な議論といえるかもしれない。

何故、そのような「生」が終わらない状態が、「地獄」のように感じられるのか。その理由は、何故、人は死にたくなるのかという問いの中にある。ここでいう「死」とは、この世から消え入りたいという欲望の成就として定義してみよう。

例えば、消え入りたくなる理由は、羞恥心や罪の意識の膨張、または、この世界の仕組みに対する絶望というものにあるかもしれない。つまり、自分が世界の負った傷のように感じられるということ。生きれば生きるほど、その傷跡や罪が増えていくだけだと感じられるようになる、ということだ。正解を選べない世界の中で「生」を強制されるのは、確かに苦痛以外の何ものでもないだろう。

消え入りたいという欲望の根拠

しかし何故、そこで正解を選べないと判断することができるのだろうか。正解か間違いか、それを判断するためには、その基礎となるものが必要なはずだ。それがなければ、人は判断を下すことができない。この判断の基礎となっているものは何か。それが次に問われることになるだろう。

そこには、一人ではない、という意識、つまり、内面化されたコミュニティ意識があるというのが私の仮説だ。つまり、「アポトーシス」のような機能が、「死」の欲望には働いているようにも思える。

「アポトーシス」とは、多細胞生物の身体を構成する細胞の死に方の一種で、個体をより良い状態に保つために引き起こされる細胞の自殺、プログラムされた死のこと。つまり、ある有機的なシステムがあって自分はその一部である。そして、その有機的なシステムをより良い状態にするためには、自分が消え入る必要があると。そんな風な判断がかたちを変えて表象しているのではないだろうか。

集団的な「死後への不安」

哲学者の丸山圭三郎は、死への恐れの理由を4つ挙げている。

1.肉体的苦痛に対する恐れ、2.別離に対する恐れ、3.喪失に対する恐れ、4.死後への不安。

この中で、最後の「死後への不安」というものを、その他の3つより根本的なものとし、〈非-知〉に直面した時の戦慄として捉えている。つまり、「死後の不安」「死後に暗い心」こそが、「死」への苦悩の根元だというのだ。

現在において、この「死後への不安」が様相を変えて立ち上がってきているのかもしれない。しかしそれはおそらく、実存的なものだというよりは集団的なものとして生まれ変わったかたちで。そこに新たな「地獄」が生まれはじめているのかもしれない。

展示『チームラボ 踊る!アート展と、学ぶ!未来の遊園地』(日本科学未来館)を観てきたよ。

この記事の所要時間: 28

2014年11月29日(土)〜 2015年3月1日(日)までだったのが、5月10日まで会期延長してた。その幸運にあやかって行ってきました、日本科学未来館へ。そしたら、これが予想以上にすごかった。この展示は良い意味で相当ヤバイもの。何故なら、すべてのコンテンツ産業に関わる人たちにとって、この展示を無視して作品を生み出すことが困難になるようなものだったから。

本展示のポイントは、大まかにいうと2点ある。1つは、デジタルという方法論によって、日本(アジア?)古来の空間認識における論理構造(ここでは「超主観空間」と呼んでいる)の解明とその成果となっているところ。そしてもう1つは、コンテンツと人々が別々に独立したものではなく、一体となっている、というところ。このふたつが、ものすごい破壊力を作品たちに与えていた。

「超主観空間」については、現代哲学においても大きなテーマとなっているものなので、その具体的な様相の表現ということもできるだろう。そして、コンテンツと人々の関係性については、例えば、小説における「パラフィクション」の議論とも響きあっているし、ウェブでのコンテンツの受容のされ方の変化も、この潮流の中に並べてみることができるのではないだろうか。

最近、理論的にはボンヤリとしていたものが鮮やかに形を現し、まだうまくリンクできてなかった事象たちが星座を描き出す。また、それが「わかる人にはわかる」といったストイックなものでも全くないところもすごい。そのことはあの作品たちの中で、子どもたちが自由に楽しんでいたことからも明確なことだ。そして同時に、大人たちにとっても、何かエモーショナルなものの解放を最大限に感じ取ることができる。すべてのコンテンツメーカーにとって、ていうかメディア関係者にとって、これは必見の展示といえるだろう。

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『チームラボ 踊る!アート展と、学ぶ!未来の遊園地』

2014年11月29日(土)~2015年5月10日(日)
会場:東京都 お台場 日本科学未来館
時間:10:00~17:00(入館は閉館の30分前まで)
休館日:火曜(12月23日、1月6日は開館)、12月28日~1月1日
料金:
当日 19歳以上1,800円 小学生以上1,200円(土曜は1,100円) 3歳以上900円
前売 19歳以上1,600円 小学生以上1,000円(土曜は920円) 3歳以上700円

肥満大国メキシコ。その対策として編み出された方法が楽しそう

この記事の所要時間: 150

2013年に「国連食糧農業機関(FAO)」が発表したデータによると、メキシコの成人の肥満率は、32.8%。この数値は、アメリカを抑え、世界一だそうです。それを受けてかどうかは分かりませんが、そのメキシコで興味深い肥満対策が取られているよう。

スクワットで地下鉄運賃が無料に

そのひとつが、スクワットを10回したら、地下鉄の運賃が無料になるというもの。実施したのはメキシコ保健省とのこと。

現在、メキシコシティの地下鉄や市政府運営の交通機関の10数ヶ所に設置しているという。メキシコに行く時には、ちょっと試してみたい気持ちになります。けどこの試みを日本を実施したらどうなるんでしょうね。結構、文化や地域性の違いが出そう。

歩くと音楽が鳴る階段

また、同じくメキシコの肥満対策で興味深いのがこちら。歩くと音楽が鳴る階段。

地下鉄ポランコ駅は、メキシコでもっとも地中深いところに作られている。それと同時に、とても長い階段を持っているのです。そのため、ほとんどの人びとは、エスカレーターをしていたらしい。まぁ、普通に考えるとそうなるでしょう。しかし、2014年9月にこの階段にある変化が起こりました。階段を歩くと、まるでピアノの上を歩いているみたいに、音が鳴るように。

これは地下鉄会社とメキシコ国立高等理工科学院が共同で開発したもの。これにより、階段を使用する人は増加したのだそう。特に子どもたちには人気とのこと。

肥満率が高いと医療費がかさみとか、国をあげて取り組む理由もあるのでしょうが、それでもその対策がこんなに楽しいものになるというのは、興味深いですね。どれくらいの効果があるのか、そのデータが発表されるのもちょっと楽しみ。まぁ、啓発活動という側面が大きいのでしょうけれど。

 

参照:BOLETOS GRATIS DEL METRO POR SENTADILLAS 26 ENERO 2015 EJERCICIO MÉXICO DF
参照:Escaleras Musicales en Metro Polanco

Top photo by Tristan Higbee

「旅行者」と「地元民」。その境界線にあることの悦楽に浸る

この記事の所要時間: 24

「旅行者」と「地元民」の行動パターンの違い

ちょっともう4年くらい前の記事ですが、こんなのがありましたね。

「旅行者と地元の人の行動パターンの違いが一目でわかる世界の大都市地図」

ここで紹介されている地図は、flickrなどに投稿されている写真の撮られた位置情報を元に作成されたもの。

長期間、その街で撮影している「地元民」を青色に、短期間で撮影している「旅行者」を赤色に塗り分けています。黄色はデータが少なすぎてどちらか判別できなかったもの。

この地図をみると、一目で「地元民」と「旅行者」の行動パターンが異なることが分かります。

お店の選び方が違う?

それで、僕がよく通っている横浜中華街にこれを当てはめるとどうなるのかぁと思った。まぁ、実際の明確なデータはないのだけども、やっぱり違ってくるよね、当然。

中華街では大体、中華料理を食べると思うんだけど、どのお店を選ぶのか、そこにスゴく違いが現れます。つまり、このお店のセレクトに「旅行者」と「地元民」との違いが、明確になるのではないでしょうか?

ブラブラと適当歩いたり迷い込んだり、あとやっぱり口コミ。それらを頼りに探索してみると、やはり基本的に「地元民」の行く店は「地元民」しか行かない。

探険する「にわか地元民」の楽しみ

中華街って、早く閉まる店が多いですよね。20時とか21時とかで大通りにある店は結構閉まる。けど例えば、中華街で働いてる人が仕事帰りとかに寄る店。そんな店が、大体は美味しくて、そして安かったりするのです。しかも、夜遅くまでやってるところが多い。

もちろん例外もあります。それらも大抵は「旅行者」からしたら、その店構えからしたら名店のようには見えないところが多いのです。遠出して入る場所のようには、多くの人は思わない。けど、めちゃくちゃに美味しかったりするんですよね。でも、大通りが「旅行者」で溢れかえっている時でも空いてたりする(笑)。

そんなお店を探して歩くのが、「にわか地元民」の楽しみのひとつ。それは、「旅行者」でも「地元の人」でもないマージナルな場所ゆえの楽しみでもあるのかもしれません。

以下の画像は、最近行ったお店をランダムに。昔からの老舗の名店だけではないですが、あまり「旅行者」が足を運ばないところばかり。

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まだまだ、これから行きたい店リストがこなせていない。そんなに広い範囲でもないのだけど、しばらくは探険が楽しめそう。

「地域アート」における「批評」について。

この記事の所要時間: 541

1.

文芸評論家の藤田直哉さんの書かれた論考「前衛のゾンビたちーー地域アートの諸問題」(『すばる』10月号)を興味深く読みました。

公共の文化事業に関わる人たちにとって、暗黙のテーマだったことを、ちょっと離れたところから言葉にして問いかけています。こういう議論は、その出発点がどこから始まるのかが大事だと思いますが、とても良い距離感で放たれた、という印象を受けました。

藤田さんは、「文芸評論」という「村」に比較的しっかりとした基盤をお持ちの人であると思うので、この論考は、別の「村」に対する1人の「観光客」からの視線である、とも言うことができるかもしれません。

多分、アートの「村」の中の人たちも、この論考の受け取り方は一様ではないでしょう。「おお、やっと言ってくれる人が出てきた!」という人もいれば、「あちゃー、今それ言っちゃいますかー。」という人もいるのではないでしょうか。まぁ、「何が問題か分からない」という人は、あまりいないのではないかと思います。

2.

ここでは、論考の最後の方で発せられているこの問いかけについて書いてみたいと思います。

「それでは、芸術が芸術という固有の領域であることにより期待されていた、現世を超えたある種の力を、失うことにはならないか。世界を全的に変えてしまうような鮮烈な力を失うことにならないか。そしてそのことにより、社会や政治を変える力を、かえって無くすことにならないだろうか。」

藤田さんは、Twitterの方でも、この論考への反応に応答しておられますが、その中で、「芸術」とか「美」といった概念を、固定された、つまり、本質主義的に扱っているわけではないことをことわっています。

つまり、今の「地域アート」の流行の中で、「芸術」や「美」といった概念が変容しているようだけど、そのことに無自覚に、そして素朴に乗りすぎてるのではないか、という問いかけなのだということです。もっと言えば、今の「地域アート」の現場に「批評」が「言葉」が足りないのではないか、ということでもあるでしょう。

3.

その指摘と同時に、藤田さん自身の「地域アート」に対する言葉による批評的な介入をしています。それを端的にいうと、「それ、知における牙が抜かれてんじゃないの?」ということができるのではないでしょうか。

書いている私も、藤田さんの問いの1つである「社会や政治を変える力を無くすのではないか」ということに関しては、正直、まだ分かりません。それは今、実験と観察の最中なのです。

確かに、公共のアートが、行政の技術として使用されていることは、確かなことだと思います。けれども、市民をコントロールするという目的を果たしていこうとする中で、道具的に使用される側が、反対に影響を与える、という可能性はないのかなと思ったり。

些かあまい考えであることは充分に承知していますが、アートが社会のインフラとして行政の一部に組み込まれることによって、ただ利用されるだけでない変化も起こすことができるのではないか、ということを考えるのです。行ってみれば、行政と市民とかの関係のコミュニケーションの回路としても、機能しうるのではないか、とか。

これが実際どうなっていくのかは、私自身、まだよく分かりませんが、その分からない理由のひとつは、それが関わる人たちの資質に大きく依存するからです。もしかしたら、ただ一方的に行政側の都合に取り込まれる際の言い訳になってしまう可能性だってあるでしょう。何らかの対立する事象が生まれた時、やはり基本的には自分の生活の基盤を握っている方に傾くからです。

4.

あと、行政が主催するアートイベントにも、複数の目的がありますよね。その中でも「町興し」的なものが、論考では主に想定されているように思うのですが、もうひとつ、その目的としてよく使用されるのは、町の「浄化」を目的としたものでしょう。この「浄化」を目的としたアートイベントにおいて、上記の藤田さんの問いかけが、非常に重みのあるものとして響くと思われます。

例えば、売春街のような場所だったところをそういう人たちを排除して、空いたスペースにアートを入れ込む。もちろん、そこにアートを導入する最初の目的は、町のイメージを良くしていくことなのだけれども、ここからもうワンステップあります。

そのイメージが変わったら、その次は再開発がはじまるのです。つまり、その場所でアートは、再開発への移行をスムーズにするための過渡期としての役割を担うのです。その後、古い建物は取り壊され、そこでのアートの役割はそこで終わるでしょう。もちろん、一部はアートが残ることも考えられますが(そこは関係者の方々、頑張ってください)、目的はその後の再開発なので、駅ビルとか新しい建物が建ったり、地価が上昇したりします。

それは誰が望んでいることなのか。また、そこに何か問題がないのか。そのことを考えることも、藤田さんの問いかけに対する応答でありえるかと思いました。

5.

問題は、近視眼的になってしまって、大きなシステムの中での流れで位置付けられているのに、それが見えにくくなってしまうことかもしれません。そのように一種の隠蔽の機能があることを指摘すること、それがここでいう「批評」の機能ということなのかもしれません。

やはり、ここには「批評」とは何かという問いがあるのです。そして、その「批評」のあり方に応答してみたいと思いました。

藤田さん論考の中で、「地域アート」の現場での「王」は、「当事者」と「地域」である、と書かれています。ですが、私はそうは思いません。なぜならそれは、やはり主催する人たちによって、環境が設定されコントロールされているからです。

まるで、「当事者」と「地域」が「王」のように見せかけること。それは一種の政治のテクノロジーのように思います。ワークショップとか、例え、オープンエンドであろうとも、やはり誰かのコントロールした環境下にある。その行き先がどこに向かうのか、それが大事なことなのですが。

このような「批評」のスタイルを踏襲していうならば、この「地域アート」の現場で起こっていることは、言うなれば、「環境管理型権力のマイナーアップデイトなのかもしれない」、という問題提起をすることができるかもしれません。その良い悪いは、別にして。

まぁ、実際は、例えば「横浜トリエンナーレ」でも、実に複雑な関係の上でフェスティバルは成り立っています。およそ、反対のベクトルを向いているアートが同じプラットフォームの上に乗っている。そういう複雑さを読み解くことが、今、必要なのかもしれません。

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(了)

試論「ポストインターネット時代の野性」 第1章 「動物」の「野性化」へ(前半)

この記事の所要時間: 625

動物趴

第1章 「動物」の「野性化」へ(前半)

1-1. 「リアル」と「ネット」の行方

メディア論の大家であるマーシャル・マクルーハンは、1962年の著書『グーテンベルクの銀河系』の中で、「グローバル・ヴィレッジ」(Global village、地球村)という概念を提示しています。マクルーハンは、電子メディアの登場によって、人々がコミュニケーションを行う上で障壁となっていた時間と空間の限界が取り払われ、その結果、「グローバル・ヴィレッジ」が形成される、と予言したのです。

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さらに、「グーテンベルク銀河系」が象徴する文字を中心とした視覚文化から、電子メディアの時代になってくると、音声など聴覚文化が優位になってくる、とも言っています。文字による視覚文化は、文字と個人との間に孤独な思索を形成します。近代的な自我というものが読書経験によって培われるというのも、その孤独の思索によってというところが大きいでしょう。そして、聴覚文化は、その個人主義と孤立の世界から、「部族的基盤」をもった集合的アイデンティティへと移動させる、とマクルーハンはいいます。先祖返りのようなものですね。

さて、2014年の現代日本において、「リアル」と「ネット」の境界線が曖昧になっていることが指摘されはじめてから、もう5年くらいが立ちました。その融合の流れの中で最もインパクトが大きかったのは、やはり「Twitter」や「Facebook」などのウェブサービスの普及でしょう。

つまり、リアルタイムWebによって、「ネット」が「リアル」と同期しはじめたわけですね。それまで日本社会における「ネット」は「リアル」とは別のパーソナリティ、もしくは匿名である傾向が今よりも強めでした。つまり、非同期性が重要だったのです。その二つの世界は別々の世界であり、「ネット」は「リアル」が一度キャンセルされた世界だったということができるでしょう。もちろん、同じ言語圏であることは基本的に前提になってはいますが。「ネット」は「リアル」を変化させるのではなく、あくまで補完的な役割を果たしていました。つまり、「リアル」と「ネット」を行き来することが重要だったのです。

しかし、リアルタイムWebが一般化していく中で、その二つの世界の境界線が曖昧になり、「ネット」は「リアル」のための道具として再構築されていくことになります。もちろん、その反対のベクトルも発生しています。つまり、「ネット」が「リアル」を浸食していく流れですね。例えば、ネットカルチャーと親和性の高いアニメ界隈でいえば、その舞台となった場所を観光する「聖地巡礼」という文化や登場キャラクターのコスチュームに身を包む「コスプレ」なども、その例として挙げることができるのではないでしょうか。しかし、「ネット」の空間としての場所性は後景化していきます。「二次元」という言葉も空間でないことを象徴しているのではないでしょうか。コミュニケーションの距離や時間を短縮するものとしての使用が主だってくるのです。つまり、「ネット」を独立した空間的に捉えるのではなく、「リアル」を前提とした形になってきた、ということですね。

特にその影響を見て取れるネットの文化圏がありました。それは「非モテ」文化圏です。もともと、日本の「ネット」は、自意識を持て余した「非モテ」文化と親和性がありました。その意味で「リアル」の補完的な空間であったということも可能でした。例えば、巨大掲示板である2チャンネルやはてなダイアリーの非モテ論壇などにも、当時の「リアル」と「ネット」の関係を見て取ることができるでしょう。実際、当時のオフ会などに参加すると、そのことはよく実感することができました。

それがリアルタイムWebの時代においては、「リアル」が全面に出てくることになります。そのことによって、「ネット」における「非モテ」文化圏の全能感は縮小していくことになりました。もちろん、完全に場所が失われたわけではなく、多様化し棲み分けが進んだという側面もあるでしょう。けれども、いわゆる「リア充」の強い場所として機能し始めることになった、ということは確かなのではないでしょうか。「ネット」が「リアル」へフィードバックすることが前提になった時代。人間の身体を中心としてインターネットが再編成される時代。本稿では、その時代を「ポスト・インターネットの時代」と名付けてみたいと思います。

1-2. ポスト・インターネットの時代とは

もちろん、この「ポスト・インターネット」という概念は、私が創造したものではありません。ここで別の人による「ポスト・インターネット」の概念規定を確認しておきましょう。メディアアートの研究者・水野勝仁氏は、インターネットの出現から「ポスト・インターネット」までの流れをまとめています。要約してみましょう。

まずインターネットの出現当初は、リアルな世界からインターネットの世界へと私たち持っている感覚の場を移そうとすることにベクトルが向いていた。しかしいつの間にか、インターネット上の情報がリアルな世界から移されたものではなく、それ自体が別のリアリティを持つようになったのだ。そして、リアルとインターネットが同等の存在だと意識されはじめた中で、この二つの間を行き来しているのが今の状況なのではないか、というのだ。それが「ポスト・インターネット」における社会的な状況なのである。さらに、この二つの世界は常に同期しようとしている。けれども、リアルもインターネットも常に動いているので、同期しようとしても必ずズレが生じてしまう。(参照:座談会「ポスト・インターネット」を考える(β))

この座談会は現在より2年くらい前の2012年3月に行われたものですが、大まかな把握としては、現在も通用するものと言えるのではないでしょうか。しかし、ここでも「ネット」と「リアル」は二つの世界であり、それが常に同期しようとしている、という世界観が存在しています。

「ポスト・インターネット」の時代において、その世界観は「ネット」と「リアル」の関係性において、多元化します。ここで考えられるのは3つのパターンです。1つ目は「リアル」と「ネット」を別々に捉えるという世界観。3つ目は、それを使いこなす人びとによって「ネット」は「リアル」に帰属する、という世界観です。3つ目は、「リアル」が「ネット」に帰属するという世界観です。

本稿における世界観は2つ目の視点を取ります。その視点から、「ポスト・インターネットの時代」がどのような時代なのかの見取図を描くことが本稿が書かれている理由です。情報環境の受容者の立場からの思想を描くこと。それが今、あまりないように思われることが執筆の動機となっています。

特にビッグデータなどの技術的な変化と生活者である人間の関係についても、言及していかなければならないと思います。大げさな表現になりますが、サルトルの「実存は本質に先立つ」という言葉をもじるならば、「実存はITに先立つ」という理論を構成する、と言い換えても良いかもしれません。

実存主義とは何か
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仮想通貨「ビットコイン」の現状と未来について。

この記事の所要時間: 519

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1、ビットコインは「破綻」したのか

インターネット上の仮想通貨「ビットコイン」。先日、その大手取引仲介会社「MTGOX(マウントゴックス)」が経営破綻しました。主な理由は、ハッキングによって多額のビットコインなどが消失し、債務超過に陥ったこと。

2月28日に財務相・金融相の麻生太郎さんは、記者会見で「こんなものは長く続かないと思っていた。どこかで破綻すると思っていた。」と発言。これだけみるとビットコインというシステム自体が破綻したような印象を与えますが、破綻したのは取扱所、仲介屋さんなのですね。もちろん、ビットコインのシステムに欠陥があったからハッキングされたわけですが。

これで終わりなんて単純なことではないのは麻生さん自身も認識しています。同じ会見での「日本で何とかせねばならない。自民党でも研究している人がいたので、早急に詰める」との発言は、今後の影響力も想定していることを示していると言えるでしょう。

3月11日にニューヨーク州金融サービス局が、ビットコイン取引所の開設申請を正式に受け付けることを発表しました。現在の日本では、直接的にビットコインを購入できる取引所は無くなっているわけですが、そう遠くない未来に、ビットコインが買えるATMが登場するという動きもあったりします。

2、そもそもビットコインって?

もうすでにビットコインに関する沢山の記事が存在しているのですが、このブログは自分の頭の整理も目的のひとつでもあるので、一応、ビットコインの説明を書いときます。

ビットコインは既存の金融機関に依存することなく、個人間の電子マネー取引を実現するシステムであります。その最大の魅力とされるのは、決済時にほとんど手数料がかからないというところ。特に海外への送金などをメガバンクを通じて行うと結構な手数料が生じるので、国境を越えたお金のやり取りには特に重宝がられています。

そのビットコインの利用者が増えたきっかけとなったのが、2013年3月のキプロス危機です。ギリシャ危機の余波を受け、キプロスの銀行融資や債券投資に大きな損失が発生しました。その時、キプロス政府は銀行を救済するために国民の預金を一部強制徴収。そのため、自国の貨幣の信頼が失われたのです。そこで、キプロス市民がビットコインに関心を向け出したのですね。

この流れはキプロスだけに留まりませんでした。経済状況が良くないスペインをはじめ、欧州全域に広がっていきます。さらには、管理通貨である「人民元」に不安を抱く中国の人たちの支持も受け、急激に広まっていくことになる。

そして、このような仮想通貨の広がりに、多くの起業家たちも関心を寄せ始めます。インターネット初期のブラウザー「ネットスケープ」の開発者であるマーク・アンドリーセン氏。フェイスブック立ち上げを巡るマーク・ザッカーバーグCEOとの訴訟で知られるウィンクルボス兄弟。そして、今や世界のインフラのようになっているGoogleも、仮想通貨のシステムを如何に自らの内に取り込むかということを考えているようです。

仮想通貨であるビットコインは、ネットでの取引のほかにも実店舗での使用も可能です。QRコードをスマホで読み取ると、簡単に決済できる仕組みもあります。現在の日本では、まだビットコインを実店舗で使用できるのは、六本木のレストラン「ピンク・カウ」の一カ所くらいしかないですが、もう少ししたら話題作りのためにも導入を検討するお店も増えてくるのではないでしょうか。地域通貨とかポイントカードの延長線にあるものとして受け入れられやすいかもしれません。

3、ビットコインの入手方法

今のところ、ビットコインを入手する方法は2つあります。ひとつは、取引所から購入する方法。今は日本唯一の取引所が潰れちゃったので、国内では実質できなくなっていますね。そして、もうひとつは、ネット上で「採掘」する方法です。

「採掘」っていうのは、ゴールドラッシュのイメージですね。具体的には、コンピュータを使ってビットコインの取引が正しく行われたことを検証することになります。ビットコインを入手したい人がコンピュータとソフトウエアを用意して、競争で検証に取り組み、先んじて取引の検証に成功することでビットコインを受け取ることができるという仕組みになっています。ちなみに「採掘」する人は「炭鉱夫」と呼ばれているそうです。また、価値を担保するために総額2100万ビットコインまでしか「採掘」できない設定となっています。

この「採掘」によって供給されるビットコインは、検証への報酬になると同時に、ネット上の市場に新しく通貨を供給する役割も持っています。

そういえば、ゲームに変換された労働を行うことで収入が発生する世界を描いた小説があったように思うのですが、それに近いものがありますね。

4、ビットコインの問題点と課題

もちろん、ビットコインには問題や課題もあります。

ハッキングなどの技術的な問題はもちろんのこと、マネーロンダリングなどの犯罪の温床になっていることも確かです。通貨の価値が安定しにくいのも問題点として指摘できるでしょう。

あと、国家というシステムとの兼ね合いもあります。通貨の発行権は、国家にとってすごく重要な特権なのです。この特権があるからこそ、国家は経済をコントロールすることができる。その特権を民間企業などが持とうとすることは、国家の権益に抵触することになる。現在、ドイツやシンガポールは容認。中国、インド、タイはビットコインを禁止。米国やフランスは警告状態、といった流れですね。そして、日本では課税も含めて対策を考えているようです。

まだまだ仮想通貨は発展途上の状態にあり、これからビットコインだけでなく様々な仮想通貨同士の競争が盛んになっていくことが予想されます。その中でどのようなものが残っていくのかはわかりませんが、国境を無化するという流れはグローバル化やインターネット化していく世界の中で、ひとつの必然として考えることもできるのではないでしょうか。ただ、現在、大きな力を持っているシステムやそれを支えている組織の中抜きを超えていく運動でもあるので、様々なコンフリクトを起こしながら、まずはそれぞれの国家において、落とし所を探っている状態に見えます。

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ベルリンのスクワットとジプシーの歴史、そして、京都学派的な何かについて。

この記事の所要時間: 638

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先日のportBの高山明さんと思想家の東浩紀さんのトークは、とても興味深いものだった。ここで話された内容は、これからの日本文化の行方を占う意味でも重要なものになるだろう。ニコ生のタイムシフトで2014年3月5日まで、有料だが視聴することができる。あと、Twitterでの実況まとめもあるので、参照するといいかもしれない。

「観光と演劇は社会を変えるか――Port B観光リサーチセンターと福島第一原発観光地化計画の未来」高山明×東浩紀
https://live.nicovideo.jp/watch/lv167308496#10:47

イベント実況のTogetterまとめ
https://togetter.com/li/635135

このイベントの冒頭部分で高山さんは、ドイツ・ベルリンのスクワットについて言及していた。スクワットとは不法占拠のことだが、そのような違法性の高い状態への対処の仕方が、ドイツと日本では異なるのではないか、というのである。ドイツ・ベルリンでは、そのような違法な占拠状態も上手く行政側が利用しているのではないかと指摘していて、いわば、「貧困ツーリズム」の観光資源として活用することで、その場所をスクワッティングしているたちの利益と行政側の利益が一致するということで、成立している空間なのではないか、というのである。(地主のパーソナリティとかも影響しているらしいけど。)

そのようなことを可能にしている歴史的な背景についてはあまり語られなかったのだが、この話は最近目を通した本を思い出させた。それは『ジプシー』(水谷驍 著)という本である。

ジプシー 歴史・社会・文化 (平凡社新書)
水谷 驍
平凡社
売り上げランキング: 98,447

新書なのですぐに読めるし、ジプシーに対する先入観が大きく変化する内容になっていて大変面白い。以下では僕の中でイベントの内容とシンクロした部分を要約してみよう。

人類学者のジュディス・オークリーは著作『トラヴェラーメン=ジプシー』(1983年)の中で、ジプシーは15世紀はじめに登場しており、その時期はヨーロッパにおいて資本主義体制の勃興期にあたると指摘している。それ以前の封建制が解体することによって、雑多な流民層が社会に放出され、つまり、この流民層がジプシーの起源となったのではないか、というのである。

さらに、ヨーロッパの封建制の解体、資本主義の勃興というコンテクストのなかでジプシーを考察しようとしたのが、オランダの社会人類学者や歴史学者のグループ。

彼らの議論によると、ジプシーと呼ばれる人たちの起源は、ヨーロッパ各地に発生した雑多な出自の貧民・流民層にある。こうした人たちが定住民の主流社会と特殊な関係を取り結ぶ中で、ジプシーという社会的な存在形態を形成してきたのだ。この過程で決定的な役割を果たしたのが、時の政治権力や教会当局による「烙印押捺」と呼ばれるプロセス。つまり、彼らにとって好ましくないものたちの排除・排斥するプロセスである。その基準となったのは、近代的国民国家を構成する国民として、善良なキリスト教徒で、ひとところに住み、決まった職業を持つか否かということであった。この条件を満たさない者たちは、「危険な放浪者」として排除・排斥の対象とされたのである。

そして、主流社会から排除・排斥される関係がいったん成立してしまうと、排除・排斥する側はそのための制度や仕組み(弾圧・排斥の法体系、警察組織、救貧制度、免許制度、一斉捕獲、見せしめ的な刑罰、その他)を精緻に築き上げていく。その一方、排除・排斥される側は、そのような社会的条件の中で、生きてゆくための独特の生活様式や文化を形成していくこととなる。

しかし、近代資本主義社会には、常にある種の「隙間」があったこともまた
指摘されている。排除・排斥された人間集団にも居場所があった、というのだ。このような隙間にあって、地域社会に不可欠なさまざまな「サービス」を提供することによって、そこに生活基盤を得て再生産されていったのである。主流社会の側も、隙間を埋めるという経済的な機能を果たす限りにおいて、このような人間集団の存在を許容してきた。こうして、今日見られる「ジプシー」と呼ばれる人間集団が近代ヨーロッパ社会に広く形成され、再生産されてきた、という説がこの本のひとつの軸となっている。

このヨーロッパにおける「ジプシー」という観点から眺めた歴史が、先に述べたベルリンにおけるスクワットの社会的な受容の背景のひとつとしてあるのかもしれない。

そのことは高山さんが現在、日本の「歌舞伎」に関して興味を持たれていることとも響き合っている。高山さんは、「歌舞伎」は帰る場所のなくなった者たちの怒りの表現がその起源にあるのではないかと指摘していた。そして、社会のウチとソトの境界域に住まうようになったのだ。そのことはベルリンのスクワットで起こっていることと、もしかしたら同型の現象としてモデルを取り出すことが可能なのかもしれない。

現在の日本において、そのような境界域や隙間の役割はどこにあるのだろうか。そこで思い出されるのは、東さんの最近の京都学派への関心である。京都学派に限定したことだけではないが、京都には「あえて触れない」という知恵が今も生きている、という話を聴いたことがある。触れなければ上手くいくならば触れなければいいという知恵。それは理解しないことや聞かないことを戦略として使用するのと同じように、ひとつの権力の手法、作法でもある。

明治時代以降の日本においては、そのような振る舞いは、建前上、前近代的なものとしてネガティブに語られがちだった。もちろん、そこにはネガティブな側面もあることは確かだろう。なぜならば、その手法は、ある種の特権階級の利益を守ることに使用されがちだからだ。しかし、その手法にポジティブな意味を汲み取って発展させていくことを、東さんは構想しているみたいだ。その知恵を様々な他者とのインターフェイスとして活用していくことの可能性が示唆されている。

このイベントは、日本がこれから育てていくべき文化の場所についての話でもあったように思う。高山さんは、インフラや公共事業などに如何に自らの考える演劇的手法を介入させ、サステイナブルなものにするかということを志向しているように見えるし、東さんはやはり、この国の文化は伝統的に民間によって担われてきた歴史があるのだから、そのコンテクストを活かすことが重要だと考えている。どちらも社会的機能を意識した上での選択でもある。

最後の方でも話されていたが、日本の土着の地域性みたいな文化の古層を探求することが重要なのではないかという点でも二人の見解が一致していた。

高山さんの戦略や方法論は、僕にとってとても分かりやすい。一般的に異端的に見られる傾向は感じているが、むしろ、正攻法なのではないかとさえ思う。しかし、東さんの京都学派推しに関しては、僕はまだ上手く咀嚼しその未来像を描くことができない。

もちろん、これは僕の中でのことなので、そこにある違和感に関しては、近いうちに言語化していきたい。たぶん、理解のポイントは「政治」や「公共」のプラットフォームに影響力を持つまでのプロセスにあるような気がする。その辺を考察すると、たぶんとても長くなるので今日は記述しない。

明治以降の西洋化の流れの中にある国民国家システムの在り方のオルタナティブとして、古層を掘り起こし京都学派に繋ぎそれを発展させていくこと。そこには知識人という存在が、如何にして社会で有効に機能しうるのかという問いも含まれているわけだが、つまりはそれがたぶん、直接的には、今の国民国家体制の構造を脱構築するには至らないのではないか、という感覚が払拭できないのである。しかし同時に、それが「文化」というものでもある、のかもしれないとも思った。

インターネットおじさんとデジタルネイティブ第二世代との間に横たわるもの 〜ポスト・インターネットと世代論 〜

この記事の所要時間: 454

Danbo and Domo meet a new friend in Silicon Valley

このエントリでは、「インターネットおじさん」というキャラクターが、「ポスト・インターネット」という情報環境において、どのように位置付けられるのかを考察していく。

まず「インターネットおじさん」とは何なのかを説明しなければならない。とりあえず、以下のページを観てみると良いかもしれない。

「インターネットおじさんをベルリンにアップロードしようのページ」

このように白タイツに身を包んだ「おじさん」が、インターネット上のサービスやコミュニケーションツールをリアルで自分自身の身体を用いて代替することが、「インターネットおじさん」のキャラクター設定となっている。

このようなキャラクターの登場は、「ポスト・インターネット」の時代と響き合うところがあるのではないか、というのが本エントリの問題提起だ。そして、それは単純に新しい世代というわけではなく、時代と複数の世代との間でできているネジレこそが、このような表象を生む基盤となっているのである。

ここで「ポスト・インターネット」とは何かを確認しておきたい。メディアアートの研究者・水野勝仁氏は、インターネットの出現から「ポスト・インターネット」までの流れを以下のようにまとめている。

まずインターネットの出現当初は、リアルな世界からインターネットの世界へと私たち持っている感覚の場を移そうとすることにベクトルが向いていた。しかしいつの間にか、インターネット上の情報がリアルな世界から移されたものではなく、それ自体が別のリアリティを持つようになったのだ。そして、リアルとインターネットが同等の存在だと意識されはじめた中で、この二つの間を行き来しているのが今の状況なのではないか、というのだ。それが「ポスト・インターネット」における社会的な状況なのである。さらに、この二つの世界は常に同期しようとしている。けれども、リアルもインターネットも常に動いているので、同期しようとしても必ずズレが生じてしまう。

参照:座談会「ポスト・インターネット」を考える(β)

この座談会は現在より二年近く前に行われたものであるが、大まかな把握としては、現在も通用するものと言えるだろう。

ここで、そのような「ポスト・インターネット」の環境に暮らす人びとの世代論に入っていきたい。どうして世代論なのかというと、情報環境が用意されてもそこに暮らす人びとがそれを使いこなすことができていなければ、「ポスト・インターネット」の時代にはなりえないからだ。「ポスト・インターネット」の時代は、大きく二つの要素から構築される。一つは、ネットサービスの進化と多様化、一般化であり、そしてもうひとつは、それを使いこなす人びとの存在である。

新たな情報環境を使いこなすための身体性は、その生まれ育った時代に大きく規定されることは説明するまでもないことだろう。ここでその新しい環境を使いこなす世代として挙げたいのは、デジタルネイティブの世代だ。

デジタルネイティブ (digital native) とは、生まれた時からITに慣れ親しんできた世代のことで、日本で商用インターネットがスタートした92年、この年より後に生まれた世代が該当すると言われている。(世界初の商用インターネットは87年)。

さらに、デジタルネイティブはすでにふたつの世代に分けることができる。物心ついた頃から携帯電話やホームページ、インターネットによる検索サービスに触れてきた世代を「第1世代」。そして、ブログ、SNS、動画共有サイトのようなソーシャルメディアやクラウドコンピューティングを使いこなす青年期を過ごした世代を「第2世代」と言う。

参照:https://m.kotobank.jp/word/デジタルネイティブ

例えば、ソーシャルメディアの代表格のひとつであるTwitterは、2006年7月からのサービス開始だが、日本で本格的に普及し始めたのは、2009年頃。「インターネットおじさん」は、1984年01月19日生まれで、今年30歳なので、その頃は25歳くらいである。青年期の真っ只中だ。もともと、デジタルネイティブと言うには少し早く生まれすぎているきらいもあるが、さらに、ここで「第一世代」から「第二世代」へのインターネット環境の変化を体感することとなったのではないだろうか。

ちなみに、人生の途中からITに触れた世代を「デジタルイミグラント(digital immigrant=移民)」と呼ぶ。「インターネットおじさん」は、何とかデジタルネイティブ第一世代には入りそうだが、第二世代に入ることは難しいだろう。つまり、第二世代から見れば強くイミグラント性を帯びている存在なのである。ここに「おじさん」という概念が共振するポイントがある。つまり、「おじさん」であることと「イミグラント」であることが共振するのである。

この同時代からの微妙な距離感が、「インターネットおじさん」という存在を生み出したのではないだろうか。もし、どっぷりとソーシャルメディア時代の情報環境を当たり前のように使いこなしていれば、このようなキャラクターを生み出す必要性はなかったのではないかと思うのだ。インターネットを自らの身体によってパロディ化する手法は、デジタルネイティブ第二世代のエッジに同期するためのものなのではないだろうか。

さて、そろそろ結論へといたろう。

「インターネットおじさん」という表象は「ポスト・インターネット」の時代において、異なる世代同士が如何に同期するのかを示すものである。それぞれ異なる時代のメディア環境によって培われた身体、早まった身体、遅れた身体は、別の仕方で時代のエッジを共有することが可能なのだ。そして、その共有の舞台は、リアルとネットの境界線上なのである。つまり、「インターネットおじさん」はそこに住まう存在なのだ。リアルとネットの同期の不確実性が、その生存を助けている。

photo by: Takashi(aes256)

ドラマ「明日、ママがいない」(第一回)を巡る反応と私の個人的見解。

この記事の所要時間: 714

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久々に見応えのあるドラマを観た。「明日、ママがいない」である。日本テレビ制作で2014年1月15日から毎週水曜日22:00から放送されていて、主演は子役で有名な芦田愛菜さん。主な舞台は児童養護施設。キャッチコピーは、「捨てられたんじゃない、わたしたちが捨てたんだ。」「今、君の隣にママはいますか?」。

なかなかショッキングな表現力が多く、第一回の放送後、沢山の批判や中止を求める声も上がっている。

その批判の先陣を切ったのは、熊本市西区にある慈恵病院。同病院は親が育てられない子どもを匿名で受け入れる「赤ちゃんポスト(こうのとりのゆりかご)」を設置している。第一回放送の次日、16日に記者会見を行い、日本テレビに放送中止を求めると発表した。

批判の内容は、「内容が今の児童養護施設の現状とかけ離れている。子供を動物扱いし、平手打ちやバケツを持たせて立たせる行為は施設内虐待に当たる。里親制度も実態と違う」「番組の舞台は国が進めようとしている地域に根差したグループホームであり、番組の体罰的な場面から国民や世論の理解も得づらくなる。いくらフィクションでも、子供や親、職員の人権を侵害している」、といったものだ。

第一回放送時点で、問題とされているのは以下の2点に集約される。

①主人公の女の子のニックネームの付け方
②児童養護施設の実態と乖離している点

①は、例えば、母の罪状が恋人を鈍器(灰皿)で殴ったということで「ドンキ」であるとか、赤ちゃんポストに預けられていたから「ポスト」であるとか、施設に預けられた理由に由来したニックネームが付けられている、ということだ。②については、実際の施設職員からもその具体的な乖離が語られている。

「ドラマ『明日、ママがいない』第1話へ児童養護施設関係者からのツッコミ」
https://togetter.com/li/616921

結果、この番組が加害や偏見を助長する、というのだ。

ネットでは具体的な加害のケースも挙げられている。親に捨てられた施設出身の若者が、あの番組を見てフラッシュバックをおこし精神状態を悪化させ、リストカットに及んだ、という衝撃的な実例もある。

「日テレのドラマ『明日、ママがいない』への声 第2弾 番組見て恐怖の記憶が甦り、リストカットした若者も」
https://bylines.news.yahoo.co.jp/mizushimahiroaki/20140120-00031787/

さらに、厚生労働省が2011年に児童養護施設などの方向性を示した『社会的養護の課題と将来像』の精神にも反しているのではないか、という声もある。このドラマでの児童養護施設や里親の描き方が誤解を生み、国の政策を後退させる要因になるのではないかという批判だ。

「児童養護施設等の社会的養護の課題に関する検討委員会の設置について」
https://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r98520000010mz4.html

「社会的養護」
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kodomo/kodomo_kosodate/syakaiteki_yougo/index.html

ネット上では、このドラマは「いかに野島伸司テイストをメタ的に遊ぶか」、が要点であるとしている論者も存在する。確かに「野島伸司だから」ということによって一歩引いて観る視点を獲得することは、このドラマの受容のあり方として正しいようにも見える。しかし何故、この日本社会が野島伸司テイストをベタに取るようになったのかというところまで思考が及ばなくては、「自分はちゃんと観ることができてる」という表明以上のものではないだろう。共有された前提が異なっているから起こる混乱というだけでは、ただ「観る者に教養がないから」といっているのと同じなのではないだろうか。つまり、テレビを視聴する上での文化的な前提の切断がそこにあるということなのだが、それをメタに楽しむというところに留まるのでは、ただそこにある問いを無効化し安全なものにして消費しているに過ぎない。

脚本を担当した松田沙也さんもTwitterで、「このフィクションを通して、まずは子ども達に興味を持ってもらうこと、そして彼女達が問題に立ち向かう姿を見た同年代の子どもたちにも少しでもプラスの感情を抱いてもらえればと思います。」と述べている。

今の日本社会には多くの無関心と想像力の欠如が蔓延しているのではないだろうか。施設なども含め、多くの社会問題は日本ではほとんど存在しなくなっていると考えている人も多くなっているように感じられる。このような問題のメディアへの露出度や関心度は低くなっているし、さらに観たくないものは観なくていいアーキテクチャが構築された社会に私たちは置かれているのだ。

しかし、施設に預けられる子どもたちは今もなお増え続けている。そのことを考えるための導線が今の私たちの社会には不足しているのではないだろうか。まずは無関心よりも関心を。感情のフックを多用しているのは、そういった意図もあるのだろう。そのフックが強すぎて、テーマの主旨とは別に表現の仕方や設定に対して批判が集まっているようにみえる。しかし、その感情のフックもまた、今の日本社会の実情を表現しているようにも思えてならない。

このドラマで注目すべきところは、子どもの視点とその主体性にある。それはジブリ作品「かぐや姫の物語」とも共通する特徴といえるかもしれない。『竹取物語』におけるかぐや姫も原作では内面を描かれることがなかった。その物語をかぐや姫の視点から描くこと。それがジブリの「かぐや姫の物語」のひとつの画期的な点ではなかったか。つまり、本作品においては「子どもからの目線」を描こうとしているのだ。施設の子どもは自らを語ることもできず、大人の庇護の元にあるだけではないだろう。もちろん、そのことは子どもたちを野に放つようなものかもしれない。それに対する賛否両論はあるのは当然だ。しかし、想像しさえされなかった状態から具体的な形が立ち現れることは、大きな変化でもある。施設に限らず、そういった子どもたちもいるのではないか、という想像力を空白にしないこと。それは今、とても大事なことなのではないだろうか。

確かに、学校で施設で生活をしている子どもに対するいじめが発生しないだろうかという心配も妥当性のあるものだ。子どもの傷に更に塩を塗り込む危険性を孕んでいるだろうことも予想される。施設で暮らす子どもたちへの影響も含めて様々なケースを想定してほしい、ということももっともなことだ。もちろん、表現が適切かどうかは、常に考えていかなくてはならない。

しかし、今回の批判の多くは、おそらく結果的に素朴な差別意識を温存する方向に機能する。けれども、大事なのは施設にいる時間だけでなく、一人の人間の一生涯であるはずだ。その本当の解決は、放送中止という形では実現しない。

また、施設の職員たちは批判的な意見が多いが、実際の出身者の声は肯定的なものが多いというところも、何故そうなのか考察する必要があるだろう。

「明日、ママがいない」施設出身者の方々の反応
https://togetter.com/li/617131

本ドラマは放送後、ネットでも視聴できるようになっている。
観ていない人も是非観てみて、自分の中に沸き立ってくる感情の中にあるものを見つめてみて欲しい。

【公式:番組全編配信】明日、ママがいない 第1話(HD)
https://www.youtube.com/watch?v=x4oUqRdHisM

また本ドラマは、社会的擁護を選ばざるを得ない親たちの話やその社会的背景や構造を、広く一般の人たちが考える上でもきっかけにもなり得るのではないだろうか。そして、これが大事なことなのだが、そのような状況下にある子どもたちを、決して哀れみや大人の一時的な庇護だけではなく、同じ目線で描こうとしているのだ。問題となっているニックネームも、スティグマを受け入れ、そこから主体的に野に出て、自らの生を紡ぎだすために必要な装置のように思われる。

次回以降も注視していきたい。この問題提起をただ批判し消費するだけに留まるのであれば、日本の未来は多くの子どもたちにとって、今以上に生きづらいものになることの証になるかもしれない。より包括的な社会のプラットフォームを作り上げるのに必要な問題提起を、本ドラマは含んでいるように思われるのだ。

劇評「味覚で感じる異なる文化体系と日本のアナザーヒストリー。」(途中経過version)、『東京ヘテロトピア』(port B)

この記事の所要時間: 329

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※まだ半分くらいしか体験してませんが、会期が終わるまでにおすすめしときたいので、現段階での途中経過を簡単にレビューしときます。全部周ったあと、改めて完全版を公開する予定。

異国で暮らすことは寂しさの伴うものだ。だからこそ海外一人旅の良さもあるわけだが、本人たちの希望とは別に様々な経済的、政治的理由から日本で暮らしている外国人もまた、マイノリティであることの孤独を意識しないでいることは難しいだろう。

心理学で「地」と「図」という概念がある。ある事象が他の事象を背景として浮き上がって知覚されるとき、前者を「図」といい、その背景となっているものを「地」という。日本における外国人、特にアジア系の人々の生活は、この「地」のような存在だ。その生活のあり方が「図」となることはほとんどない。それはつまり、「ここにいるのにいないように扱われる」ということである。

port Bの新作「東京ヘテロトピア」は、その「地」の部分、この日本を構成しているにも関わらず背景のように意識的に知覚されることのない複数の点を繋ぎ合わせ、それを体験する観客の中に別の「図」を浮かび上がらせていく。

特に今回のツアーパフォーマンスで特徴的なのは、観客が足を運ぶことになる場所がレストランや居酒屋などが多いということだ。それぞれの場所で様々な地域の料理を食べることができるわけだが、それらは日本人の味に合わせているというより、その地域のオリジナルな味に近いものとなっている。もちろん、そこはそれぞれの地域から来た人々のコミュニティの場であるからということもあるが、決して閉じられた空間ではない。そこでは日本とは異なる文化体系があることを実感することができる。食材や香辛料、その組合せの違い。それらによって味覚を刺激することで、自分が所属する文化体系とは異なる体系がそこにあることを体験することができるし、ぶっちゃけ日本人向けにアレンジしたものよりも美味しいと感じる人も多いのではないだろうか。そういう意味でグルメな人にも今回のツアーパフォーマンスはオススメできる。

本作品は、FT13の主催プログラムだ。今回のFTのキーワードになるのは、「アジア」と「物語」。この「東京ヘテロトピア」はそのど真ん中を貫く作品と言えるだろう。また、これはツアーパフォーマンスの特徴といえるものだが、開演期間が終わってもその店や場所がなくなるわけではない。もし、期間が終わってもそこに足を運ぶ人がいるのなら、それは観客がこの作品を経験した前と後で変わったということなのではないだろうか。

ツアーパフォーマンスの機能は沢山あるが、そのひとつは、「人」「物」「金」、そしてそれに伴う「情報」が実際に動くということである。つまり、実社会の中に作品という回路を仕掛け、作品が終わった後もその回路の結果生まれた効果は持続するのだ。今回の作品は今までのport Bの作品の中でもその機能が強いものと言えるのではないだろうか。その理由として挙げられるのは、やはり「食」という人間の基盤を多く組み込んでいるからである。人間の根源的な欲求を作品の中に取り込んでいる。「地」となっている歴史や物語に覚醒するのは、食欲に導かれた異なる体系との出会いのその後でも良いのかもしれない。

(了)

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「東京ヘテロトピア」(port B)

スケジュール
11月9日(土)~ 12月8日(日)
休演日なし

*都内各所に点在する会場を自由に巡る形式の作品です。
*ご購入のチケットは、東京芸術劇場内1Fアトリウム特設F/Tインフォメーションにてツアーキット(ガイドブック・携帯ラジオ)にお引替えください。

お引替え期間:
11月9日(土)~ 12月8日(日)12:00〜19:00
(休館日:11月11日(月)・12日(火)は除く)
*お引替え後は会期中、何度でも自由に会場を訪れることができます。

https://www.festival-tokyo.jp/program/13/tokyo_heterotopia/

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「論壇」を再起動する装置とその複数性 ー 藤田直哉さんの論考をきっかけに ー

この記事の所要時間: 458

Book tower

文芸評論家の藤田直哉さんの論考『ゼロ年代批評の政治旋回――東浩紀論』を読みました。僕はこの論考を、批判により新しい問いを生成し「論壇」再起動のための装置を用意したという点において擁護したいと考えます。

https://nanasi-iinkai.hatenadiary.jp/entry/2013/07/04/185216

本稿では、東浩紀さんの3.11をきっかけとした「政治旋回」に関する議論が展開されています。

その「旋回」後の様子は『思想地図β vol.3「日本2.0」』の巻頭言に現れているとし、そこに3つの違和感、問題点を指摘し、その巻頭言と主著のひとつである『動物化するポストモダン』のデータベース理論とを比較することにより、その理論上の変化が語られています。そして、その批判は東さん個人への言及に留まらず、「ゼロ年代批評」界隈全体へと対象を拡大していきます。

藤田さんは「ゼロ年代批評」の特徴のひとつとして、内容ではなく「売り上げ」こそが思想を正当化するという言説空間であることを挙げています。そのような言説空間が形成されていったのは実感として分かります。といっても数万部といった規模なのですが、ポストモダン乗り越え型の新自由主義的な発想が蔓延している中で、文芸業界でそれと同じ空気感が大きくなってきための反応ということもあるのでしょう。しかし、何故そのような言説空間が形成されたのか、ということも重要なのではないでしょうか。

そのような言説が批評界隈で目立ち始めたのは、出版不況の中での「人文系の危機」というものが意識されていたからだと記憶しています。例えば、有名な文芸誌なども全国の図書館に納入するものも含めても数千部といった状態。出版社の経営状況から見ても、漫画やライトノベルなどで出た利益の余剰で文芸誌は作られているような状態。実際に購入している個人の数は、人気の同人誌と同等かそれ以下であったりしました。もちろん、佐々木中さんのように文学の勝利を高らかに歌う人もいるけれども、言ってみれば、手に取る個人はマニアな少数派の層であって、「大衆」に訴えるようなことは基本的になかったと言えます。また、少数派のための、という存在意識もあった。そして、やはりそこには続いてきたコミュニティとその継続による「権威」も存在している。ただ、大文字の社会ではなく、ひとつの「業界」になったことは確かでしょう。もちろん、それはただ責められるようなものではありません。なぜなら、多様さは社会の豊かさの指針の1つでもあるわけだし、それによって守られたものは沢山あるからです。しかし、その島宇宙の成立は、時代の変化への無関心や「権威」に基づく上から目線によって形作られていたのではないか、ちゃんとアップデートしていればもっと多くの人たちに読まれる価値のあるものなのではないか。内側にいる意識があるからこそ、そういう問いが生まれてくるのも当然なのではないでしょうか。そのような問いの中から「ゼロ年代批評」もまた生まれたように記憶しています。

言ってみれば、始まりは生き残るための「実験」であり、多くの人に届いたことの根拠が「売れる」ことだったのです。けれども、それがいつの間にか正しさの根拠になっていったようなところは確かにあった。その輪の中心的な存在であった東さんはともかく、その周囲の批評クラスタの人たちは、売れることと正しさが直接的に結びついていたようにも見えました。また、そう考えるのが「頭がいい」という風潮も生まれていた。そこにはある種の思考停止があることも確かでしょう。ただ、やはり新しい流れを作ろうとすると様々な反応があることも世の中の常なわけで、その中で生き残るには「コミュニティ」の生成が必要だったという側面も理解できます。何らかの後ろ盾がない場合は特にそうです。僕はある現象を「政治」的に把握する時、世の中の現状にどのようなベクトルをもたらすかで判断します。何をどのように守るのか、何をどのように変えるのか。言説内容だけでなく実際の機能を、ですね。何故そういう風に考えるかというと、物書きが記している内容、存在と世の中にもたらすベクトルは必ずしも相関関係にはないからです。僕はそのことが日本において「言葉が軽い」ことの原因のひとつだと思っています。

あと、本稿でポストモダニズムについての言及がありましたが、僕もやはり東さんは現在もポストモダニストだと思います。最近、「切断」の重要性とかツイートしてたように記憶していますが、それはポストモダニズムの思想と無関係ではありません。「切断」のひとつの応用の形として「放っておく」いうのがあると思うのですが、東京の文化的特徴、もっといえばオタク的態度と共にその可能性を未だに思考しているように見えます。どのような日本社会を目指すかという点においては東さんは一環しているように見えるのです。ていうか、僕はその点しか見ていないと言っていいかもしれない。

僕はお二人の経緯とか歴史を遠巻きに見ていたので、色々感情的なあれがあったことも多少は知っています。ただ何か不幸なように思われるのは、それを業界的な「政治」に利用されているように見えるところです。このタイミングでこの論考がネットに掲載されたこともやはり理由がありますよね。ある種のトラウマ的な経験を乗り越えないと藤田さんも次に進めないということも理解できるけれども。それは勇気を伴うものだとも思います。

もしこの議論に東さんがのっていくのなら、日本におけるひとつの「論壇」の再起動にも寄与することになると思います。けれども、それは難しい。何故ならば、少なくとも現状においてこの批判に答える必然性がないように見えるからです。藤田さんはその議論が成立するための「土俵」を作っている最中なのかな、と思いました。そして、その批判から問いを生成する手つきはとても肯定したいものです。

以上。

photo by: Loozrboy

大澤信亮「復活の批評」をきっかけに考えたこと。

この記事の所要時間: 428

Glowing Bar City Street Night Lights

※この記事は、2011年2月12日のはてなダイアリーで公開したものです。
独自ドメイン取得にあたって再掲載。

 

 『文学界』の2010年3月号に掲載されている大澤信亮氏の「復活の批評」を読んだ。一言でいうと、批評を再起動させる場所の確認作業、といえるだろうか。

 近年、批評というジャンルの内側で、批評の対象とするコンテンツの違いによる新旧の情報戦が活発化しているようにも見える。そのことは、既得権益の切り崩しとも重なってみえたり、インターネットの発達によるメディア環境の変化ともシンクロしていることもあり、表象的にも商業的にも大澤氏が批判する勢力の方が順調に見える展開があるのではないかと思う。ネットコミュニティやオタクコミュニティを一つの基盤としていること、そのことが「新しい批評」の言葉が「ゲーム」において有利な理由でもあるだろう。

 大澤氏が批評を発する場所は「私小説的」なのだ。この「私小説的」という言葉にネガティブな意味を持つ人は多いと思う。けれども、この「私小説的」という言葉と自閉することとはイコールの関係ではない。なぜなら、「この私」であることはすべての人にとって、共通することでもあるからだ。そしてその、交換不可能な「この私」から批評を始めるということ、内省から自らを貫き拘束するものを視覚化し把握し破壊し解き放つ思考へと向かうこと。それはもともとは確かに批評が近代日本文学(つまり私小説≒純文学)への批評であった頃の環境に規定されたものではあった。
 けれども、それが現在、完全に役割を失効してしまったということは意味しないのではないだろうか。人の生き死にや苦悩、そしてその未来に関わる批評。大澤氏が再起動を望む批評はそのような批評であるのだろう。

 確かに近代日本文学の時代から世の中は大きく変化している。「この私」の「この場所」から始まったはずの言葉は、容易に既存の勢力と癒着し陳腐化してしまった感はやはり否めないし、ただその発見の場所と論の方向性にのみ実存がわずかに反映しているかのようなアーキテクチャ系批評の言葉が、時代に密着した現実的な言葉とされる根拠も分かる。

 ポップカルチャーを批評の対象とすることについて大澤氏は、「マンガやアニメやテレビドラマといった対象の貧しさ」と表現しているように、真に「この私」の「この場所」から発せられる言葉にとって、それらを批評の対象とすることは価値のないもの考えているように思われる。
 この点においては、ネット上でも当然のごとく、様々な違和感の表明を見かけた。もちろん、僕個人もその表現にはやはり問題が含まれていると思う。それは、大澤氏自身が重要視する「他者」に対する眼差しへの配慮がこの表現には欠けているのではないかと思うからだ。(感情のフックを作るために意図的にこの表現を選んだのだとしたら、ネットにおける批判の多くはその「釣り」に引っかかったわけだが。。)
 この箇所は、宇野常寛氏への批判としての表現となっている。なのだが、やはり宇野氏に対する批判としてポップカルチャーを扱うということを理由の一つにしてしまうのは危険だと思う。それは結果的に宇野氏の闘争の物語化に加担することになると思うし、その対象を批判することは余計な反感を買ってしまうのは目に見えているからだ。つまり2項対立を強化してしまう。ここが、今回、論壇における政治的な振る舞いに利用されかねない点であるだろう。大澤氏自身が表明しているように派閥争いのように図式化されることを避けためには、やはり適切ではない表現だったのではないだろうか。

 ただやはり大澤氏の宇野氏への見解にはある程度の妥当性はあるのではないかとに思った。というのは、宇野氏は古い価値に寄って立つもの、時代の先端の現象に合致していないものたちを屠ろうとする態度を取る。そのパフォーマンスによって、一定の人気を集めているのだ。けれども、その抹消への志向性は何処から来て何処に行き着くのだろうか。現状は確かにそうなっている。そしてそれを言語化すること。そのことは重要な仕事だと思う。
 けれども、それは基本的に現状追認に過ぎない。そのような状況を宇野氏はどう考えどうしたいのか。現状追認の後、生き残るためのゲームに没頭するのであれば、それそこ閉じた「実存」になりかねないのではないだろうか。
 自らに突き刺さるシステムの残余(つまり「この私」)を糧に世の中を変えていく原動力にしていくこと。そのことは批評の役割と考える人がいるのはそれなりに妥当性があるし重要なことだとも思う。東浩紀氏の現在の活動の根底にはそれがあるから強いのだ。つまり、大澤氏の批評のパラダイムにおいては宇野氏も批評家として向き合うべき問題に向き合っていないのではないか、とも思われるのだ。

 そう考えると大澤氏にも戦略が必要な面もあるのではないだろうかと思えてくる。その一つが、自らの文章を世に出す時の媒体の選択についてだ。もしかしたら、この文章は「文学界」ではなく、「フリーターズフリー」に書かれるべきものだったのかもしれない。

 結果、大澤氏が「文学界」に媒体を選択したということは彼自身が批判するこの情報戦のゲームボードに彼自身も乗ったことを意味するものでもあるのだろうか。

 

photo by: epSos.de

「他者との出会い」による「日常」の侵食~portB「完全避難マニュアル東京版」から見えてくる風景から~

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Tokyo tower

※この記事は、2010年12月15日のはてなダイアリーで公開したものです。
独自ドメイン取得にあたって再掲載。

 

 portBの「完全避難マニュアル東京版」では、観客を演劇体験へと誘うために幾つかの媒介を用意している。観客はまずウェブ上のHPにアクセスすることから始める。その導入方法は、それまで劇場に足を運ぶと習慣のない層の人々が演劇作品に参加するための参入障壁を低くしていると考えられる。これまでの演劇受容者とは異なる層が発見されることになっただろう。
 もしかしたら、その参加形式はある種の演劇愛好者からすれば、違和感を持つ性質のものかもしれない。けれども、現在の日本の文化風土の中において、劇場に足を運ぶという行為よりもネット上に存在するHPにアクセスするという方法の方が、日常から直結する形で劇へと誘うことが出来るともいえるのではないだろうか。他の芸術メディアにしてもそうだろうが、「演劇を観る」ためにはそれなりの素養が要求される。そしてその素養はこの国におけて「標準的な」身体には組み込まれていないのではないだろうか。

 ウェブ上のHPにアクセスした後、観客が行なうことは、山手線の駅29ヶ所に点在している「避難所」と称される目的地の中でまずどこへ行けばよいか知ることだ。占いのような心理テストのような質問の数々に、「Yes」か「No」か答えていくと、観客が向かうべき「避難所」が示される。その質問による導きによって、観客が多数の選択肢の前で手がかりもなく立ち往生してウェブサイトから立ち去る、という可能性を縮減している効果もあるのだろう。そしてここに「ゲーム性」の発露、もあるだ。

 

2、「他者との出会い」をゲームとして演出するアーキテクチャ

 

 この演劇作品は、「マニュアル」であるにも関わらず、「避難所」に設定されたそれぞれの目的地に何があるのか明示されていない。そのことはこの作品にゲーム性を帯びさせる要因のひとつにもなっている。またそれとは別に明示しない理由はもちろん、足を運ぶ「避難所」に対する先入観を介入させないためであることは簡単に予測されるだろう。
 もし、事前の情報が豊富であり、この作品がある種のコミュニティの紹介やカタログのような形で展開していたものであれば、この作品はまったく別の性質を帯びたものになっていたであろう。「ここはこういう場所だ」と名指すことは選択における基準となりえるし、知ってしまった時点でそこに赴く観客を選別してしまう結果が生まれてくるのは自明である。そこで「日常」から著しく外れていたり、または自らの「日常」を脅かしかねない場所へは足を運ぶ機会がなくなってしまうかもしれない。
 「日常」の行動習慣とは別の回路を開くこと。そのことがこの作品におけるもっとも重要な戦略として機能しているのではないだろうか。

 

3、ポテンシャルエネルギーを活性化させる演劇

 

 私たちの「日常」の行動は様々な慣習によって決定付けられている。言うなれば、いつの間にか行動は規範化しパターン化していくのだ。そして、もちろん、思考や身体性もそこに規定されている。そのことに気付くことの出来る機会は構築された「日常」の長さと共に次第に少なくなっていくのではないだろうか。様々なコミュニティや生活スタイルが存在していてもそれがタコツボ化していき、お互いがコミュニケーションを取らなくともその「日常」を生きていくことができるようになっている。そして棲み分けは無自覚なまま完成していく。
 けれども、そのタコツボ状態が常態化すると他のコミュニティへの想像力は次第に希薄になっていくのではないだろうか。その疑念の向かう先は、ただ倫理的なものだけではない。その希薄化は自らの想像力の希薄化そのものなのだ。そして、その貧困化した想像力によって生まれた閉塞感の中を私たちの多くは暮らしているのではないだろうか。それに他者を排除したまま僕たちは生きることはできない。唐突を現われる。「9.11」が象徴しているように。

 そう考えるならば、この演劇作品はネットを通じて「避難所」を訪れた観客のためのものだけではない、ともいえるのではないだろうか。その「避難所」を「日常」としている人々にとってもその「他者との出会い」のインフラとしても機能しているともいえるのではないだろうか。
 しかしながら、ここでひとつの疑念が想起される。それは社会の中で隠れ家として機能もしているコミュニティを開いてしまう、という可能性も含まれているということだ。「他者」が対処することが可能な範囲での異物であるうちはいいが、そのコミュニティが許容できる範囲を超えてしまった場合、そこにまず次の2つの反応を思い浮かべることができる。強烈な排他性に向かうかそれとも解体に向かうか。そのような力のベクトルが発生するだろうと考えられる。もちろん、演出家はそのことも想定済みのはずだ。フィードバック関係はその「個」だけでなく「場」とも成立してしまうのだから。

 「個」と「場」のフィードバックを繰り返した結果、当然のことながら、はじめの「個」や「場」のあり方とはずれているだろう。そして、そのズレこそが、おそらくはこの作品で目指されたものなのではないだろうか。そのズレがどのように機能するかはわからない。けれども、そこにある閉塞感、規定された「日常」を生き続け、想像力の貧困に陥りある時に突然、悲劇に出会ってしまうにくらいであれば、様々に「他者」との間にシャッフルをかけ、ポテンシャルエネルギーを活性化させたほうがいい。
 ただ、演出家は明らかにその「避難所」の選択において、その作品の効果の向かう方向を規定しようと試みているように思われる。それは主にアンダーグランドなコミュニティを選択している傾向が強い、ということに集約される。現代の日本社会の状況の中で、むしろ病的だと認識されがちな「場」を選択している意図。それは様々な逃走の中で形成された対処方法としてのコミュニティに、逃走元の社会の抱える問題点やその解決方法があるのではないかという期待が重ねられているのではないだろうか。しかし、その問いの答えは「場」を共有したひとりひとりに委ねられている。それもまた一つの作家としての倫理的な態度のように思われる。

 

4、「場」と「個」のトランスディクションへ

 

 本作品は様々な観点から語り得る懐の深さがあると思うが、フランスの社会学者、ピエール・ブルデューのいうところの「文化資本」や「界」の理論の文脈から、この作品の行なっていることを観るとまた別の風景が立ち現われるのではないだろうか。
 ブルデューは「文化資本」や「界」の理論を社会変革のために使用される概念として提示した。けれども、それらの概念は社会の成り立ちを説明こそはすれ、改革のために使用される、というところまではなかなか人を導くことは難しい。人は安定を求め、リスクとコストのある不安定な状態を好まないからだ。けれども、「界」が変容する、ということは不安定な状態を経由しなければ容易に到達しえない。それであるならば、その安定性を失う状態にどのように観客を誘えばよいか。その答えのひとつはここにあるのではないだろうか。
 事前に「日常」からシームレスに演劇体験に繋ぐこと、どのような出来事が起こりえるかを事前に情報として伝えないこと、ゲーム性を導入すること。参入障壁を下げていく戦略をとりながら、狙われている劇的経験はとてもラディカルなものである。
 本作品は演劇の持つポテンシャルへの正統な挑戦であり、間違いなく日本に置けるアート史、演劇史におけるメルクマールとなる作品であろうと考えられる。

photo by: apple 94