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この記事の所要時間: 320

Basse-Ville and Vieux-Port - Vieux-Québec, Québec, QC, Canada

 6月30日(土)に渋谷の映画美学校で行われたトークセッション「『以後』の『批評』のために」を聴いてきたのだが、最近、遠く離れた感もある批評業界について久しぶりに面白いと思える内容だったので、ちょっと今の感情をここに記しておきたいと思う。

 出演者は、大澤信亮さん、千葉雅也さん、速水健朗さんの3名。
 司会は佐々木敦さんが担当されていた。

 もちろん、それぞれの批評の立ち位置が明確で、トーク自体がスリリングなものではあったのだが、私が忘れていた記憶を想起させられたのは、大澤信亮さんの言葉だった。

 2000年代後期あたりに、「ロスジェネ」や「フリーターズフリー」の言説に関心が集まった時期があった。「ロスジェネ」に関しては、湯浅誠さんや雨宮処凛さんというスターというかアイコンを生み出したあと、まるでその役目を終えたようにトーンダウンしていった印象を持っている。もちろん、ある一定の人材を送り出せたことは成果のひとつともいえるが、その論調自体はどんどんしぼんでいくこととなる。

 大澤さんの言論へのモチベーションとして、高校を卒業して大学に入るまでの間に経験したアルバイト経験があるそうだ。そこでの経験から、資本制の暴力の問題へと傾倒していく。それはもちろん、ルサンチマンによるものでもあるだろう。そのことを個人的な経験を一般化しすぎていると批判する人もいるかもしれない。だが、そこで本人に刻み付けられた痕跡は、彼の物語や問題設定において、決して無視できるものではなかったのだ。

 大澤さんも所属していた「フリーターズフリー」は、多分、色々な議論のクラスタがある中で、私にとって一番近しい位置に存在していたと思う。私が発行しているインディーズメディア『未来回路』でも、1号で栗田隆子さん、2号で杉田俊介さんにインタビューをお願いしているし、共通する知人もおそらく一番多く、かつ古いだろう。

 批評業界でいえば、柄谷行人さんの「NAM」やこの「フリーターズフリー」など、今の資本制の社会とは別の形の社会を目指すことが目標となっていた。けれども、その外部などどこにも存在しない以上、その運動は潰えることになったのではないかと思われる。

 しかし、それは果たして「正しい」認識なのだろうか?

 資本制の暴力は確かに存在するだろう。貨幣経済を嫌悪しながらも、その中にどうしようもなく絡めとられてしまう自分。格闘することさえもその中に回収されていく。嫌悪する暴力を潔癖に拒絶しようとしても、どうしてもそこから逃れることができない。出来るとするならば、もはや自死しかない、と追いつめられる。

 そのシステム、構造の暴力を抽象化して考えるとどうだろうか?

 現在の貨幣経済社会を特権化してしまって身動きが取れなくしているのは、もしかしたら、私たち自身なのかもしれないと思うのだ。そこに卑劣な暴力の連鎖の源があるのならば、その連鎖をどう止めればいいのか。そのことを考え行動することはまだ十分に可能なのではないか。貨幣経済など全体的なものではなく部分であり道具であり、利用できるところがあれば利用していくだけのこと。そのような振る舞いを、少なくとも僕は裏切りの行為だとは思わない。たとえ、そのことによって、汚れてしまうものがあったとしても、それもまた人の生なのだと。

 私はそのようなコンテクストの中で、例えば、「評価経済」論や「ノマド」界隈の言説を興味深く追っているし、坂口恭平さんの「独立国家」に関しても共感しているところがあるのだ。
 だから、「ロスジェネ」や「フリーターズフリー」が止めてしまった歩みを「未来回路」の中で更新していきたいと思っていたし、戦線はここなのだ、と今でも思っているところがある。もちろん、力量不足で、もしかしたら、単なる幻と戦っているだけなのかもしれないのけれども。

 ただ、そのような問いの中で生きていることだけは、確かなことなのだ。

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