この記事の所要時間: 212

なんかYouTubeで色々動画観てて、偶然行き着いたんだけど、これを聴いて身の引き締まる思いがした。

「なぜ徒党を組むのか」小林秀雄
https://youtu.be/clkjp6WjKTg

小林秀雄曰く、

信じるということは責任を取るということであり、信じる力を失うと人間は責任を取らなくなる。
そして、集団的になる。自分の外部に解を委ねたくなる。
自分流に信じないからイデオロギーっていうものが幅を利かせる。だから、イデオロギーはいつも匿名であり責任を取らない。
大衆・集団の力など、責任を持たない力は恐ろしい。それは、集団になると現れる精神。
反省がないということは、信じる能力を失ったということ。
もちろん、信じるということも危険なこと。いつも間違える可能性があるから。だからこそ、責任を取らなくてはならない。

ちょっとニュアンスは異なるかもしれないけど、要約するとこんな感じ。

僕が文学や哲学が好きな理由は、この信じることと責任との間にある関係の密接さにあったように思う。その初心というか、そういうのを思い出させてくれる言葉だった。

あと、どういう流れだったか、90年代半ばくらいの朝生とか観てた。

朝生「激論! 宗教と若者」池田晶子総集編
https://youtu.be/tOVVKOrGLiI

西部邁 飯島愛に宮台真司を叩くよう指示する
https://youtu.be/sr7EJdslVdo

西部さんが戦後の世間というものは、他人に迷惑をかけない範囲で全て自由ということになったけれども、それは問題なので如何に立て直すかみたいな話をしていて、宮台さんは親は教育熱心なのだが、何が子どものためになるのか分からなくなったとか話てて。

現在ではもうこういう議論はほとんどしないよね。論点が本当に変化してる。当たり前だけど。

無理やり同じ論点にしようとしたら、他人に迷惑かけてでも如何に自らの自由を正当化し責任を取らないかとか、親の教育熱心さは社会階層に関係するとかそういう風になりそう。

そう考えると、この20年で随分と日本の議論って移動したなーって思う。このような議論が実際の社会にどのような影響を与えたのかは確認のしようがないけれども、その背景やまだ気付かれていないことなどを考えながら、昔の議論を観てると現在の僕たちが向き合っている問題も、20年後にはこんな風に見えるのかなって。

でも、冒頭の小林秀雄の言う「信じることと責任を取ること」ということは、いつも頭の片隅に置いておきたいなと思います。

Popular Posts: