この記事の所要時間: 154

  

※思いつくまま書いてるので、乱筆で失礼します。

東京から実家のある山口に帰省することもあり、その真ん中に位置する京都にも足を運んだ。もちろん、目的は2015年5月10日まで開催される「パラソフィア」をみてまわること。このエントリーでは、鑑賞前に今、考えていることなどを残しておきたいと思って書いている。

まず、昨日までは神戸にいたのだが、最寄り三田駅から尼崎駅まで行き、そして、そこから京都へ向かう電車に乗って、京都駅へ。そこから地下鉄で四条まで行き、今、展示のひとつである建物に併設しているカフェでこれを書いている。予約していく宿が15時からチェックインなのでそれまでの時間に書き上げたい。

電車の中で、もちろん、このアートフェスについてSNSなどで評判などをチェックしたわけだが、ひとつの気になる記事とひとつの気になるまとめを発見した。前者については、肯定的な記事で後者は言ってみれば、問題提起のようなものだ。トゥギャッターでまとめられていたのだが、そのまとめ主が知人でもあったりして、今回のこの展示群を観る上でのひとつの観点を提示してくれた。

Booking.com

具体的にいえば、このアートフェスが「知性主義的なアートフォビア」が具現化したものなのではないか、というものだ。それに対して、池田剛介さんが「アート業界の反知性主義」とをさらっと対峙していて興味深い。自分の比較的身近な政治とかいう社会関係に引きつけて考えるときに、非常にわかりやすい構図になっている。

こういう構図はアート業界に限らないものなのだけれども、ここがポイントになりがちなのは、アートというものの社会的機能というものがその「リゾーム性」にあると考えられているところがあるからかもしれない。それは、たとえば「オタク文化」もそうだけれども、メインストリームではないところで育ったものが新しい価値や文化を作るという思想のようなものがあって、それをアートが担ってきたという自負のようなものがあるからかもしれない。そしてそのことはこのフェスに冠されている「パラ」という言葉の意味ともシンクロしているわけだ。

つまり何というか、「知性」の在処の争奪戦というかそういうものが、ここ京都で「はんなり」とおこなれているのかもしれないな。